100万ドルは遠かれど
函館公園の中央大噴水。その近くに置かれたベンチに、大学生くらいの男が1人。ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認する。午後3時40分。11月の夕暮れ時、水場の近くということもあって、風が吹くと少し冷たい。それでもダウンジャケットを着ていれば、外にいても問題はない。
視線の先には、快晴の空。ロープウェイのケーブルが、函館山の最高峰、御殿山へと伸びている。
(展望台、いっぺん行ってみたいと思ってたんだけどな……)
未練たらしく見ていた男だったが、払うように首を振る。家に帰るには、まだ早い気がする。だからといって、公園でやることも特にない。しばらく中空を見ていた男は、まぁいいか、とばかりにダウンジャケットのファスナーを下ろした。スーツの胸ポケットから、手のひらサイズの紙箱を取り出す。箱の蓋を開けて中身を取り出そうとしたところで、動きを止めた。
なにげなく投げた視線の先に、見覚えのある女性の顔。相手もこちらに気付いたようで、2人は鏡合わせのように、目を見開いていた。
「……見たことある顔だな」
「うん、見たことある。クラス一緒だったよね?」
「それは覚えてる」
受け答えしながら、必死で頭を回転させる。
(誰だっけ。顔は覚えてる。高校一緒、クラスも一緒、何なら隣の席だったこともある。ちょっと気になってたとこもあるけど……バスケ部だったのも覚えてるけど……)
記憶の断片にある情報を片っ端からかき集める。しかし肝心の名前が出てこない。
「あーごめん、名前が出てきそうで出てこない。な行だったのは思い出せてるんだけど」
「まぁ、あんまり喋る機会なかったからね。沼田眞弓です。高本君、だよね」
「そう、高本雄太。どうも、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
言われて思い出したことに少し気恥ずかしさを感じながら、頭を下げる。愛想笑いで互いに頭を下げている様は、端から見たらやや滑稽に見えるかも知れない。
「意外だね、煙草?」
沼田がこちらの手元を見て、尋ねてくる。そこで高本は、自分が何をしようとしていたのかを思い出した。苦笑しながら首を振る。
「違う違う。俺煙草吸わねぇし。カード、トランプだよ」
そう言って高本は、箱の中身を出して見せる。ジョーカーを先頭に、バラバラのマークと数字が顔を出す。
「へっ、トランプ? なんで?」
「いやまぁ、少しばかりマジックができたりする感じなんですけどね」
「え、そうなの? 見せて見せて」
「まぁ、いいでしょう。んじゃまあ、立ってるのも何だから、座ってどうぞ」
声かけに応じて、沼田は1人分ほどのスペースを空けてベンチに腰掛ける。そのスペースにカードを持ってきて、リフルシャッフル。
「おぉ、プロみたい」
「いやいや全然アマチュアですよ。では好きなところから1枚引いて、こちらには見せないように覚えてください」
スイッチが入ったように、笑みを浮かべて台詞を紡ぐ。素人であろうと演技は演技。マジックをやってみせるなら、役者にならねばならない。
「はい、では覚えてもらったら、裏向けのまま上に置いてください。で、こいつを普通にシャッフルしてしまいますが、一番上を見てみると」
「あ、すごい、当たってる!! え、なんで?」
「フフフ、まぁ、これはネットで見たネタだからいいか。実は――」
喜色満面の高本が、慣れた調子で種明かしをしていく。
「まず選んでもらったカードが一番上、トップにある状態なんだけど、ヒンドゥー、あー普通によくやるシャッフルするときに、ボトムに持ってきて――コントロールして――」
ついつい飛び出るマジック用語を補足しながら、解説しながらの実演。始めは目を輝かせていた沼田も、用語が出るたびに段々と相槌が固くなっていく。
「――で、一番上にカードを戻して、合図して見せれば、選んだカードが出てくるってわけだ」
「へ、へー……器用だねぇ……」
最後まで説明を終えて、相手の顔を見る。そこで高本は、己のやらかしを悟った。引きつってフリーズしたような笑みに、張りのない声音。これまでマジックを実演した際の体感4人に1人くらいの割合で経験した、「思ったよりガチすぎて引いてる」顔であった。
「ま、まぁ、ネットで見たネタだから、割と誰でもできる程度のもんだよ、うん」
「へ、へー……その格好でトランプ持ってたってことは、どこかでやってたの?」
「ん? ……あぁ、服は関係ないね。知り合いに単発バイトやらねぇかって誘われて、やってただけ。近くの教会で結婚式やってたんだけど、その来場者の案内係。要るかどうかって言われると、いらなかったような気もするけど」
「じゃあトランプは?」
「時間が空いたときの暇潰し、練習用」
「ふーん……」
「ぬ、沼田さんは? なんでここに?」
「え、あーっ、とぉ、そのぉ、なんというか、名所巡りというか、『聖地巡礼』というか……」
「『聖地巡礼』?」
歯切れ悪く視線を逸らす沼田に、首を傾げる。探るように視線を動かすと、彼女が手にしているスマホのケースに目が止まった。アニメのシールが貼ってある。帽子を被った色黒の少年と、白いタキシード姿の大怪盗が対峙している映画のワンシーンだ。
「あ、それ、そうか、そういや去年の映画はこの辺だったか」
「あ、見た!?」
「見た見た。あれはあれで面白かったな。『聖地巡礼』ってことは、五稜郭から?」
「そう、そうなの。いやぁ、ラストのあれで『次は長野か』ってインパクトに圧倒されてすっかり機会を失ってたんだけど、もちろん今年の映画も見たけど、最近もっかい去年の見てみようってなって、見たらやっぱ、行けないとこじゃないし、行ってみたいじゃない? で、行ってみたんだけど。やっぱ取材しっかりしてるんだなって関心したよね。ほら、あのシーンで――」
今度は沼田が表情を輝かせ、意気揚々と話し始めた。映画は見ていたし、主要な人物の主要な話は押さえているので、始めのうちは理解ができていた。しかし、映画で触れられていないような五稜郭の歴史や、細かい登場人物の初登場シーンだなんだと、どんどんディープになっていく話題に、どうにも頭がついていかない。結局、彼もまた、引きつった愛想笑いで固い相槌を打つ他なくなっていた。
「――やっぱあのお嬢様が……あ、ご、ごめん、つい深いとこまで話を……」
「あーいや、うん、ダイジョウブ」
こちらの表情に気がついた沼田が、赤面しながら視線を逸らす。前科がある故何も言えず、高本もまた宙に目を逸らした。
自分を出すほど相手が下がる。相手が出てくりゃ自分が下がる。人間関係の押し引きはシーソーのようだというのは、一般教養の心理学入門で聞いた言葉だったろうか。
どうでもいいことを思いつつ、来たときのように、山を見やる。
「……んで、まぁ、なんだ。映画の『聖地巡礼』で、五稜郭からここまで来たと」
「うん。正確にはロープウェイの山麓駅に行ったんだけど……」
「だよなぁ」
麓から伸びるケーブルの先、標高334mの頂にあるはずの展望台に思いを馳せる。思いつきで行くにはタイミング悪く、今は年に一回の整備点検期間。ゴンドラは動いていなかった。
「せっかくこの辺まで来たなら、一回見てみようかと思ったんだけどなぁ。流石に今からこの格好で登山はできないし」
「そうだねぇ。点検は、いつまでだっけ?」
「確か、明日までだったはず」
「そっか……じゃあ、また来週、だね」
その言葉に、カードをしまっていた手が止まる。目だけ動かして相手を見ると、力が入って縮こまっているように見えた。
(また、ってどういうことだ? え、誘い? )
妙に鼓動が早くなり、頭が空転している。含みを持ちすぎて、感じすぎて、何が正解か分からない。
……ただ。
(ここで動けなきゃ、それこそ終わりかもしれない)
意識して、口角を上げる。己の腹の括り方は、心得ている。役者になることと相場が決まっている。
「来週かぁ、ちょっと予定分かんねぇなぁ」
「……だよね……」
「だから、さ。連絡先、教えてくれたらまた確認して連絡するけど?」
スマートフォンを操作して、アプリを見せる。
「え……あ、あぁ!!」
不思議そうにスマートフォンを見ていた沼田が、ようやくその意味に気付き、いそいそと自分のスマートフォンを操作する。表示された連絡先を登録して、スタンプで確認する。
「これで良し、と。あ、そろそろ時間か」
「ほんとだ、そろそろ暗くなるね」
画面端の時計が示す時間を見て、呟く。日が落ちて、辺りもだいぶ暗くなってきた。
「そろそろ帰るかぁ。こっちはバスだけど、そっちは?」
「市電だから、あっち側かな」
「じゃあ、また」
「また」
淡々とした風を装って、沼田と別れる。出口方面の植込みに隠れたところで、スマートフォンを見る。
沼田とのトーク履歴。『こんにちは』的なスタンプが2つ並んでいるだけの、まだ中身のない画面。
小さな一歩かもしれない。しかし、確かな一歩だ。
今はただ、踏み出せたことの喜びを、得られたことの喜びを、このささやかな嬉しさを享受していよう。
スマートフォンをしまい、高本はバス停へと歩き出した。




