老人とおにぎり
時刻は夜の八時である。最後となるバーでのアルバイトを終えた出雲宗一は、裏口から一歩踏み出し、反転して店内の従業員へ頭を下げた。
二年と少し世話になったバーの店主は宗一へ元気でねと言外に含んだ表情で手を振り、他の従業員も笑顔で彼を見送る。
愛着のある職場を辞める哀しさと仕事から解放された軽やかな気持ちを胸の内で混じり合いながら、宗一が裏口から通じる商店街のメイン通りに移動しようとしたとき、視界にうごめくなにかが映った。
目を凝らせば、そのうごめくものは薄汚れた衣服を身に纏った白髪の老人であった。
なにかあったのかと宗一は老人へ近づく。老人からは腐臭に近い酸っぱい臭いが香っていた。
「おじいさん、体の具合が悪いのか?」
宗一の問いに老人は歯の抜けた人が喋るとき特有の空気が通り抜ける音と共に言葉を紡いだ。
「は、腹が……」
「痛いのか? 救急車呼ぶか」
「減った」
「必要なのは医療品じゃなくて食料品かぁ」
肩の力が抜けた宗一はどこかすがるような視線で自身を見つめる老人へ、仕事用のリュックサックに入っていたなにかを取り出す。そのなにかとは、夜食用にバーで作った賄いの塩おにぎりである。
ラップに包まれたおにぎり二つを宗一は老人の目の前にそっと差し出す。
「食べなよ。具とかは入ってないけど多少腹は膨れるでしょ」
笑顔の宗一におにぎりを握らされた老人はありがとうと何度も感謝の言葉を繰り返し、勢いよくラップを剥ぎ取るとおにぎりを頬張る。
さすがに詰め込みすぎたのか、苦しそうな表情で胸を叩く老人に宗一が慌てて飲み差しのペットボトル入りほうじ茶を差し出せば、老人は五〇〇ミリペットの半分は入っていたほうじ茶を一気に飲み下す。
そんなに腹が減っていたのか、もっと食べたいならバーの店長に頼んで余っている食材でももらって別のものでも食べさせようかと宗一が悩んでいると、一瞬のことである。バーの裏口に視線を向けたほんの一瞬の間に老人は宗一の目の前から消え去っていた。
「は?」
思わず宗一の口から困惑の声が漏れる。
通行人が互いにすれ違える程度の幅しかない裏路地で人が突然消えたのだ。宗一が混乱するのも無理はなかった。
宗一がぐるりと見回しても、前にも後ろにも挙句に上にもどこにも老人がいないことを確認すると首をかしげた。超高速で表通りに移動するにしても足音がするはずである。あの老人はどこに消えたのだろうか。
宗一は高三の夏に遭遇した不可思議な体験へ思いを馳せていると、老人がいた場所に残されたある物に気づく。
ワインレッドの外装をしたスマートフォンだ。
つるつるとした背面には、エッチング技術で加工されたであろう、非常に精巧な笛を吹きながら踊る男のイラストが刻まれている。背面下部に記されたスマートフォンの型式、AGFOなど宗一は見たことも聞いたこともなく、おそらく特注品のスマートフォンだろうと当たりをつけてジーンズのポケットへしまった。
交番はバーのある商店街から家を挟んだ反対側の宗一が通う高校側にあるため、明日の朝にでも届けようと決めたのだ。そもそもこんな時間に交番へ行けば高校生が夜に出歩くなと注意されるに違いない。ただでさえ宗一が住む地区では行方不明者が増えているのだ。良識的な警察官の対応を考えれば遺失物届を後回しにしてしまうのは仕方のないことだった。