8話 わんこ蕎麦みたい
目覚めて早々、戸惑った……見たこともない天井!? えっ、ここ、どこ?
あぁ、館だ。あの部屋か。
そういや昨日、里でご厄介になったんだっけ。どうやら横になって考え事をしている内に、眠りこけてしまったようだ。
ふぅ、焦った。まずはひと安心か。
とりあえず、朝の一服……と思ったんだが、すんでのところで手を止める。煙草とはいえ、火を扱うことがエルフの禁忌に触れるかもしれないと思い直して。
昨日みたいなことはもう御免だから。様子がわかるまで、しばらく喫煙は控えよう。
元々、俺の煙草なんてのは、他部署との交流の機会になればと、情報収集を兼ねて始めたものだ。今となってはそれほど吸いたいとも思わない。ほぼ惰性でしかなかったからな。
それに、どうにも謎なんだが、あれだけ吸ってたにもかかわらず、実のところ俺は、ニコチン中毒にならなかった。ほんと不思議。あれほど身体を酷使してやってたのに……。
なんにせよ、手持ちのヤニもこれっきりだ。近いうちにどうせ無くなる。
それに、吸いすぎで病気になったとしても、医者に掛かるわけにはいかないだろうからね。なんせ異世界から迷い込んだ俺を治療する医療知識なんて、この世界では誰も持ち合わせていないわけで。
別に死ぬのは構わないが、せっかく憧れの異世界にやってこれたのだ。病気で苦しんだり、動けなくなったりするのは勘弁だ。さすがに辛すぎる。
この際、いい機会だから本格的に禁煙でもしてみるか。
禁煙なんて、いつ以来だったかな?
ああ、職場の先輩が妊娠してたとき以来か。そういや、あの人が産休に入るまでの間、職場だけじゃなくて完全に吸うの止めてたんだった。
あの時期って、いろいろとナーバスになってたからな。服に付着した煙草の微粒子とか、なにがお腹の赤ちゃんに悪影響及ぼすのかわからんと疑心暗鬼になってて。
てか、あのとき生まれた子だって、もうじき成人するくらいじゃないか? 随分とまあ、月日が流れたもんだ。
窓を開け、部屋の空気を入れ替える。
朝の空気を一杯に吸い込むと、殊更、新鮮に感じられた。
さすがは自然豊かな場所だけある。微かに香る緑が爽やかだ。
久々にまともな呼吸をした気がした。こっちの方が断然健康的でいいや。
あれっ!? そういや窓って、いつの間に閉めたんだろ? 開いてたよな?
そのとき、部屋の外から声が。
「おはようございます。朝食の時間です。準備がよろしければ、そろそろ食堂へ参りましょう」
ドアを開け、部屋付きの方と挨拶を交わす。
食堂へ案内するため、わざわざ呼びにきてくれたようだ。なんか申し訳ない。
一緒に食堂へ向かっていると、廊下の奥の方から、焼きたてパンの薫りが漂ってきた。なんとも食欲を誘う、いい匂いだ。
そういや随分なにも口にしてなかったな。昼に十秒チャージしたのが最後か? おいおい、それも一昨日の昼じゃねえかよ。
昨日だって里へ向かう途中、湧き水を勧められはした。ただ、飲み慣れていない水にあたるのを警戒し、固辞したんだった。
こんなにも長い間、水すら口にしなかった経験なんて無いんだけど。でも、喉の渇きをさほど感じていないのが不思議。
おなかも程良く減ってるくらいで、体調的になんの問題もなさそう。いや、すこぶる万全と言っていい。これほど調子のいい朝を迎えられたのは、いつ以来だろうか?
匂いに誘われるまま、食堂へ入っていく。
部屋のど真ん中には、丸太がドドンッと鎮座していた。
いや、豪快な丸太造りの食卓だ──巨木を縦へ真っ二つに割って、その切り口の部分をテーブル面として並べただけの、なんとも素朴な。椅子も小振りで同じ造りになっていた。
テーブルに湯気が舞う。
一席ごとに料理がもういくつか用意されていた。
目の前に並べられた料理は、食欲をそそる香りのものばかり。彩りのバランスにも優れ、目でも楽しませてくれる。
部屋付きの方から促され、席につく。
久方ぶりに、まともな料理にありつけそうだ。
「いただきます」
手を合わせ、目を瞑り、軽くお辞儀。一匙、口に運んでみた。
「う、旨っ!」
なにこれ?! いやいやいや、もの凄く旨いんですけど!!
えっ!? 料理って、こんなにも旨くできるものなのか? ……し、信じられん。
俺だって若い頃、食通の先輩に連れられて、結構旨い物を食べ歩いた経験はある……けど、これはまるで別物だ。比較になんかならない。
一人暮らしが長く、ガキの頃から自炊もしてきたから、料理のなんたるかをちょっとは理解できるつもりでいた。けど、これは駄目だ。レベルが違いすぎる。正直、なにをどうやったら、こんな味になるのか想像すらできない。
この世の物とは……。
あ、これってもしや!? アンブロシアって、やつじゃないのか? あの神々の料理とか謂われてる……。
ああ、この得も言われぬ味わい。口いっぱいに広がってくる幸せ……とろけちゃいそう。
あわわ、いかん。さっき俺、なんて言った? まともな料理にありつけそうだなんて失礼なことを。なんとも無礼な物言いだった。これはまさしく至高の料理──そうとしか言いようがない。
いやいや、そんなことより、今は食事に集中しなきゃ! この状態、この温度を逃しては、この料理に対して、それこそ申し訳が立たん。
その後はひたすら味わって食べるしかなかった。極上の薫りと味を逃さぬよう、一口一口丁寧に。
まさに料理の虜だった。
──気がつくと、頬にすっと冷たいものが伝わってきていた……。うん、そうね。年取ると、ほんと涙もろくなって困るよ。
はあ、でも生きてて良かったぁ、しゃ〜わせ。これだけで、この異世界へやってきた甲斐が十分あった。
満たされ、その余韻に浸っていると……。
なぜだか、お代わりがやってきていた。それもすんごい魅力的なおねえさんの手によって! なんか潤んだ瞳が、これまた爆発的に色っぽい。
いいのかな? いただいても……。
この美味しさだ。当然、このくらいの量なら、まだまだいける。十分戴ける。あ、料理の方ね。いや、おねえさんも、もちろん魅力的ではあるのだけれど。
「では、いただきます、って、やっぱ旨っ!」
くぅ、これはいかん……ついつい掻き込んでしまいそうになる……う、腕が勝手に。静まれ! 俺の腕。中二病でもないのに、腕が……まじで衝動を抑えるのが大変。
それが証拠に、あいつらを見ろ。先ほどまで遠巻きから、こちらの様子を痛いほどの鋭い目つきで窺っていた連中ですら、ほらっ! あの通り。
いざ、この料理を目の前にすると、どうにも手が止まらないといった様子。がむしゃらにむさぼり食っている。
うんうん、わかるぞ、その気持ち。
そのお陰もあって、こちらを睨む余裕すら霧散してしまったようだ。ふふふ、もうそれどころじゃないってよ。
この料理には二重の意味で感謝だな。ほんと助けられた。
──ふぅ、旨かった。んっ!? なんだ? なんかまたお代わりが……。
「えっ!? いいんですか? でも、なんかあちらの人たちがえらく騒いでらっしゃいますけど」
えっ!? ズンズンズンと近づいて……あっ、ぶん殴られた!
つうか、すっげえ音した。あれって、大丈夫なの!?
先ほどの美人の給仕さんが……なぜかおばちゃん口調で、見た目とちぐはぐな印象の人なんだけど。
いや、揉めて殴られた方ではなくて、豪快にお玉でぶん殴った方だから、余計に違和感が……。
でも、俺には振り返って優しそうな笑顔を向けてくれている。うん、もろタイプ……どこがとは言わないけど。
あぁ、振り向いたときの、あの絶妙に捻った腰のライン、たまらん……あ、いやいや大丈夫。言ってない。
──その後、このおねえさん自らがよそってくれた料理に舌鼓を打つ。打ちまくる。
次々と山盛りで出されるお代わり!? なんだか途中から、わんこ蕎麦状態になってた気もするが……。
なんでだろう? 大食らいだとでも思われたのか?
「ちょっ、ちょっと待って……ください」
「はい、お代わりだね」
「いえ、そっちのくださいではなくて。はあ、はあ……もう十分すぎるほど頂きましたので。もう満足です。ふぅ〜」
さすがにこれ以上は食材を無駄にしているような気がして、ストップをかけさせてもらった。
「もういいのかい? 遠慮しなくていいんだよ……はい、お粗末さまでした。また食べにおいで」
「えっ!? ああ、どうもご馳走様でした。はあ、こんなにも美味しい料理、生まれて初めてです。今は満腹ですけど、あはは、次が待ち遠しいほどですから。また是非お願いします」
「ふふふ、そうかい、嬉しいこと言ってくれるね。うん、いい笑顔だ」
いやいや、そっちこそ素敵な笑顔ですっての。惚れてまうやろ。
食器を返しがてら、戦場と化していた炊事場へ顔を出し、調理に携わっていた方たち全員にお礼を言ってまわったのだけど……やっぱりな。
うん、わかってた。あのおねえさんだけが特別だってことは……。
食堂の方たち全員、揃いも揃って、美人ではあったけど……他の連中と同じ目をしていた。
やはり歓迎されてはいないようだ。料理の大盤振る舞いに、つい誤解してしまった。
どうやら、あのおねえさんの独断だったみたい。それでも、たった一人の温かい目に救われた。まじ好きになりそう。
あれっ!? これって飴と鞭の、飴か? あの笑顔をちょっと向けられただけで、俺なんかイチコロじゃん。
やっぱ、ウッドエルフ、どえらい種族だ。特にあのおねえさんは、どエロい。エロフだ、間違いなく。だって、あの腰つき……。
いや、これ以上はいかん。いくら想像であっても失礼に当たる。こんなにも良くしていただいたというのに。
俺の場合、聖樹様との会談でも考えていることがダダ漏れだったわけだしな。もしもウッドエルフの、あのおねえさんにも筒抜けだったとしたら、軽く死ねる。
なにせ、こんな逆境の中、あの包容力満点な笑顔を向けられ、なおかつ、あの豊満な容姿を拝まされたら、エロいこと考えない方が無理筋だから。
会談と同じダダ漏れ状態になるのは、いかにもまずい。万が一があっても困る。ここはいろいろと自重しておかねば……。
はあ、それにしても、食った食った。むしろ少々食い過ぎで、くったくた。
膨れたお腹を擦りながら自分にあてがわれた部屋へと戻る。
途中、部屋付きの方から、「しばらく食休みしたら、里の中を案内します」と告げられた。
「あ、すみませんね。こちらでもお気遣いいただいたようで」
「いえ」
ふふふ、今日は久々に朝から良いことあった。次は何があるんだろ? まじ楽しみ。