33話 虫除けには効かんらしい
【エルフの郷】を出発してから丸二日ほど経った。依然として、人が住んでる気配のある地域には出ていない。
【妖精の森】を抜けるまでは渓谷沿いだったので、山の中を移動している気になっていたのだが、どうやら意外と近くに海があるようだ。
時折、風に流されて、潮風のような香りが漂ってくる。
森が深いせいもあってか、今の今まで気が付きもしなかった……いや、海に向かって進んでいた可能性もあるか。
当初、北西に伸びる渓谷に沿って進み、妖精の森を抜けた。とはいえ、アリエルが前に言っていたとおり、その周囲も結界がないだけで、やはり深い森ではあったのだが。
それでも、一見してわかるほど、こちら側とあちら側では明らかに様子が異なっていた。だって、木の大きさがひと回り以上違うのだから。まあ、それでも普通よりもかなり大きめだったけど。
その後は、北東へと続いている妖精の森を右手に見ながら、それに沿ってこの森の中を進んできた。
どうやらそれも終わりを告げたようだ……肌でも違いを感じられるほど、雰囲気が様変わりしていた。
あぁ、そうか。潮風を感じるようになったのは、結界が無くなったせいか。どうやらこれまでは、右手にあった妖精の森に張られた結界に海風が遮られていたみたいだ。
あの結界には幻影の効果の他にも、大気の流れを留めるような効果があったのかも。改めて思い返してみると、結界の中では風が穏やかだったような気がしないでもない。
「こっから先、北にだいぶ大きめの湿地帯があってな──」
アリエルの話だと、これからの進路は、その湿地帯を西へ少し迂回するように、北西方向にある小高い丘陵へ昇ってから、北へ進むことになるようだ。
その丘の上からは、湿地帯を挟んで海岸線がよく見えるらしい。
やや疎らになった林の中をしばし進んでいく。
緩やかな上り坂を経て、なかなか見晴らしの良いところに出た。
うっ、眩しい。ちょっと頭痛を覚えるほどだ。日差し……強っ。
そういや、ここまでひたすら緑と蔭の中を進んできたもんな。こんなにも陽の当たる場所は久々か。
額に手をかざし、しばらく経って目が慣れてくると、そこには、光に満ち溢れた楽園──見るからに南国の雰囲気漂わせる、青い海と空が広がっていた。
吸い込まれそうなほど美しいコバルトブルーに輝く遠浅の海──そこにアクセントを与えるかのように、その周辺部だけがちょっとだけターコイズカラーに縁取られている。なんともオシャレな感じだ。
その背後には藍色に染まる深そうな海。それに続くどこまでも澄み渡った青い空──まばゆいほど白い砂浜とのコントラストが南国感を際立たせている。
どうやら思っていた以上に暖かい地域のようだ。うん、まさにリゾート、パラダイスって感じ。
感慨もひとしお、これまで来た方向にも目をやると……。
おぉ! これまた見事だね。結構な距離があるというのに、まだこの位置からでも、森の中にどっかりとそびえ立つ世界樹がそこに。
近くにいるときには、むしろ横幅の方に圧倒されてたけど、こうして遠く離れてみると、やはり常識を遙かに超えた、あの高さにこそ目を引かれる。
しかし、いったいどんだけ高いんだろう? あ、そういや、今ならできるかも。
水魔法の練習がてら、水でレンズを作ってみた。おっ、いい感じ!
目の前に前後二枚ずつ、サイズの違うレンズを浮かべ、厚みを調節しながら焦点を合わせていく。それを双眼鏡代わりにして世界樹を眺めてみた。
あそこって、どうなってんだろうと思ってさ……う〜ん、あれ!? ……おいおい、えっ!? あ、まさか。
「おい、なにしてんだよ? 置いてくぞっ!」
「ん?! あぁ……ちょっと、ちょっと待っておくれよ、おまえさん」
「ふざけてる場合じゃねえって! のんびりしてっと、また虫に集られる。あぁんもうっ!!」
こっちの小芝居もそっちのけ、凄い剣幕で先に行ってしまったアリエル。
「えっ!? ちょっとぉ〜、はやいよ! 早すぎるよ〜!! ス▽ッガーさん」
って、おい!! どんだけ速いんだよ? あいつ。
後を追いかけ、やっとのことで追いついた。
というか、なんかへばってたから、意外とすぐに追いつけたんだけど……。
「ひぃ、ひぃ、はぁ、はぁ、ふぅ、ふぅぅん……ぅん、んっ」
息も絶え絶えじゃねえかよ……にしても、汗だくで苦しそうに肩で息してる女って、どうしてこうも色っぽいのかねぇ。ああ、だめ、どうにも嗜虐心が煽られる。ほんと勘弁してくれよ……。
アリエルが少し落ち着いてから、さっき慌てて走り出した理由を訊いてみた。
なんでも、さっき立ち止まった見晴らしの良い丘の下まで湿地帯が続いていて、大量にブヨが湧くんだとか。それも普通のブヨと違って、夜も活発に活動する吸血鬼みたいのが。
そんなとこで寝たら、朝には大変な思いをするらしい──というか、したらしい……往路の際に、アリエル自身が。
「くっそーっ! 思い出しただけで、また痒くなってきた。くぅ」
聖水を無駄に使う羽目になったと、怒り心頭の様子。あはは、ご愁傷様。
あれだけ凄い【破魔のネックレス】であっても、虫除けには効かんらしい。まあ、俺も都会育ちなだけにわかるよ、その気持ち。
子どもの頃は、昆虫なんてへっちゃらというか、むしろ格好いいとすら思ってたはずなのに……大人になったら、どうにも生理的に受け付けなくなっていた。でもまあ、きっかけはあれか。
昆虫の体液循環とか、外骨格とか、地球上に突然発生した話なんかを友達に聞かされてからだ。それ以来、どうにも昆虫を地球外生命体だとしか思えなくなった節がある……うぅっ、想像しただけで、気色悪っ!
「ふぅ〜、だいぶ湿地からは離れたな。ここまでくれば、もう平気なはずだ。あとちょっとで最後の野営地に着くぞ。この旅も終盤だな」
結構長い道のりだったな。こんなに歩き詰めって、生まれて初めてだ。それでも、全然疲れてないんだよね。ふふふ、結構、体力ついたか?
道中、アリエルが調理してくれたジビエがよほど体に合ってたのかも。滋養には良さそうだもんな。
それに、水の精霊さんのお陰だったりもするんだよね。
人体の六割は水分で出来ているだけに、体内の水分が数パーセント失われただけでも、身体的パフォーマンスはかなり落ちると言われている。ウォーターローディングって、殊のほか大切なんだ。
旅の最中なんかは、水分の確保に制限がかかるだけに、水分補給のペースを考慮し、どうしても節約気味になってしまう。
ところが、今の俺たちにはそれが皆無……だって、水の精霊さんがいるんだもの。ほんと途中で気付いてよかったよ。
しかも、水の精霊さんが出してくれる水が、旨いこと美味いこと。
「ふう、旨かった……水あんがとな」
こうしてアリエルにも明るさが戻ったことだし。ん!? あれ、なんか気のせいか!? いや、光の加減かな?
まあ、なんにしろ、お陰で二人とも疲れ知らずだ。水分が不足すると、なにかと疲れやすくなるからね。
年寄りを考えてみればすぐわかる。
年を取るとトイレが近くなるもんだから、水分を控えがちになる。でも、それって、膀胱に尿が溜まりきらない内におしっこをしてしまうわけだから、膀胱の筋肉が伸びず、次第に衰えてしまう。こうして更に硬くなった膀胱によって、トイレがますます近くなるという悪循環に。
こうやってどんどん水分摂取を控えるようになるから、脱水状態が原因で高齢者は疲れやすいのだ。それこそ疲労物質の排泄や、酸素や栄養供給にまで支障を来すほどの脱水状態になっていることさえ、ままある。
中年にもなれば、高脂血症などで血流も悪くなってるから尚更だ。
若い人だって、なにかに夢中になって水分補給を忘れていると、後でどっと疲れているのに気付く時ってあるだろ? あれだ。
今は亜熱帯地方を移動しているわけだから、ただでさえ汗をかきやすい。しかも、体内の水分量が少なくなってくると、比熱の関係で体温も余計に上がりやすくなるんだ。その上昇した体温を気化熱で下げようとして、更に汗をかきやすくなるといった悪循環に陥るというわけ。
体内の水分量を適正に保つことは、そうした余計な汗を抑えることにも繋がる。そのためにも、こまめな水分補給が欠かせないんだ。
汗をかけばかくほど、喉が渇いて水が美味しく感じられる。けど、これは危険な兆候。水分補給が全然間に合っていないからこそ、危険だと判断した脳が、身体に水を美味しいと感じさせているわけだから。
汗をかいてしまうと、それだけ塩分や糖分なんかも補給しなければならないしね。
ということで、この美味しい聖水ならぬ【精霊水】を使ってのお料理です。
「たららったったったった。たららったったったった。たららったったたったたたたったんたん!」
「おいおい、なんだいきなり? 相変わらず、変なやつだな」
なんだかんだ考え事していたら、野営地に到着していたようで、早速アリエルが料理の準備を始めたものだから、つい、ね。
ここまで来たら、町まであと一歩なので、節約していた野菜を全てぶち込んで、あの熊肉も入れて、ことこと時間をかけて煮込んでいきます……もちろん、アリエルが。
別に俺が亭主関白でふんぞり返っているわけじゃないぞ。まあ、アリエルが台所は女の城だとか言って、俺を炊事から排除しているわけでもないけど……。
一人暮らしが長かったから、俺だってそこそこ料理はできるんよ。そう、自宅の台所なら……だって、ほらっ、ここは野外だから……うぅ、情けない。
最初はアリエルの手際の良さに見蕩れていた。それは確かだ。ふと手伝わなきゃと思って、動き出した瞬間、物凄くやりにくいことに気がついたのだ。
まな板は無いし、切れ味のいいマイ包丁も無い。ましてテフロン加工のフライパンも無ければ、手に馴染んだ中華鍋も無いときたもんだ。
もちろん、便利な調理グッズなんかも無いわけだし。つくづく文明の利器に頼って料理してきたことを痛感したわけよ。
手伝おうとすると、かえって邪魔になる気がして……。普段はもっと手際よく動けているイメージが頭に残っているだけに余計だ。
しっかし、料理ができないくらいで、こんなにも落ち込むとは正直思わなかったよ。一人者だから食うために仕方なくやってきたつもりだったけど、意外と料理してる時間に癒やされてたのかも。
人生って、わからんもんだ。失って、初めて知る大切さ……か。
「はぁ〜あ」
あ、俺の溜め息……なんか取られた気分。
「なんだよ? アリエル。珍しく溜め息なんか吐いて。らしくもない」
まあ、おまえのこと、そんなに知ってる訳じゃないけど。
「いや、だってさ。エルフに仲間になってもらおうと、遠路はるばる、こんなところまでやってきたっていうのによ。無駄足だもん……あんたも仲間になってくれないって言うし」
「うっ、ごめん。でもよぅ、エルフに御同行願うってのは、さすがに無理があるだろ? ……あっ! そういやおまえ、エルフとウッドエルフの違いって、ちゃんとわかってて言ってんのか?」
「あん?! なんだよ? ウッドエルフって」
あぁ、やっぱりか。こいつもウッドエルフに対し、不用意に呼びかけて叱られた口なんじゃ?
門前払いとか言ってたくらいだ。素気なく追い払われて、それっきり相手にされなくなったのかもな。
このままだと、ウッドエルフと人族、双方にとっても好ましくない状況か。お互い疎遠になって、ますます差別意識が……う〜ん、なら、ちょっとくらい説明しとくべきか?
あ、情報漏洩の嫌疑とか、かけられたりしないかな? いやいや大丈夫大丈夫。エルフに対する認識が正しい方向に向くわけだから。
──ということで、問題ないと思える範囲内で、エルフとウッドエルフに関する話をアリエルにしてやった。
「おい、まじかよ!? それ、ほんとか? いやあ、来てよかったぁ〜、よく話してくれた。そっかぁ、あの時点で失敗してたのかぁ。くぅ……」
思いの外、感激した様子のアリエル。しかも同時に悔しがってた。勇者物語に出てくるエルフに相当な憧れを抱いてたんだとさ。
できることなら間に入って、もう少し話をさせてあげられたら良かったのだろうけど……まあ、どう考えても俺の方こそ嫌われてる状況だったからな。逆効果だったろう。
でも、これで少しは、世話になった分のお返しに……って、あれ!? う〜む、困ったな。よく考えてみると、道中、世話になりっ放しじゃないか。
はて? なにか他に、してやれることってないかな?
この世界での俺の特異性って、なんだ? 精霊魔法が得意なことぐらいしか……って、くだらん駄洒落を言ってる場合じゃないけど。
でも、それしかないよな……やっぱ。




