一時休戦というか態度保留というか
私たちは杖を構えた。先端を向けないように注意しながら、しかしすぐに向けられるように。
ごほっという咳と共に血が固まったような、汚れた油や泥のような——“沼と泥のドラゴン”なんて名前がついてたっけ——黒い唾が飛んだ。鼻につんときていた腐敗臭が更に強くなった。
竜の横、頭の斜め前に私たちは立っていた。その位置からは左目だけ見えた。瞳孔がこちらを向くということはなかった。竜は全周を常に見ているので目を向けるということがない。ドラゴンが『魔力探知』をこちらに唱えた。視線を向ける代わりのコミュニケーションという感じだった。魔法使いがここにいるのは見れば分かるのにあえて唱えたのだ。
咳がやんでから彼女は落ち着いた古代語で話し掛けてきた。「私は負けたのか」
「病気を治させていただきました。1ヶ月もすれば体調は戻るはずです」
キリュ゠チャは穏やかにまばたきをした。「くそっ」悪態をつく。「負けたんだな」
「はい」私は言った。
「何があったんですか?」ネゾネズユターダ君が馬鹿なフリなのかなんなのか、いきなり質問した。「よければ話してくれませんか?」
「何もない。どうでもいい」彼女の体が動いた。足と首に力が入って姿勢を変えようとした。「ああ。何か頭がおかしい」
運動能力に変化はないはずだが、それを知覚する方には問題があるはずだ。それが治るのには時間がかかる。「そのうち治ります。体を動かしてちゃんと寝て食べれば大丈夫です」
彼女は持ち上げようとした頭をまた地面に戻した。
伏せてるドラゴンはちょっとかわいい。今の彼女は灰色で臭いのでちょっとアレだけど。
本当に眠くなったようで、キリュ゠チャは目を閉じた。また『魔力探知』が使われ、私はびくっと反応してしまった。
「あのー、できれば貴方の身の回りの世話をする代わりにこの城に住まわせていただきたいんですけど、よろしいでしょうか?」
私は目を閉じたキリュ゠チャに向かって話し掛けた。
有名なので知っている人も多いけど、ドラゴンは縄張り意識が強い。自分のテリトリーに他のドラゴンを入れることは繁殖期以外許さない。じゃあ人間ならどうかというと微妙である。同類のドラゴンとは喧嘩になるが、小さい生き物に関しては気にしないところがある。しかし大きい建物などを作ると怒ったりもする。
キリュ゠チャ゠リヘツイブン゠テゾツ゠ノーニューヒャーはその辺は緩いタイプで、自分の縄張りに城を建てられても何も言ってこなかった。祭りに呼ばれて人里まで顔を出した記録もある。本来は愛想がよく、人との交流が好きなはずだ。
彼女の精神的外傷によってどのくらい今の性格が変わっているか分からなかった。治したとはいえ予後については予想つかない。
私の質問に返事はなかった。なんだかもう寝てしまったようだ。
怖い。
しょうがない。
とりあえず勝手にやらせてもらおう。
「駄目とは言われなかったし、ちょっと城の中を見てみよう」
「えー、もしかしてドラゴンと暮らすの? ほんとに?」ネゾネズユターダ君は呆れた調子だったが、声は弾んでいた。うきうきする気持ちはもちろん分かる。
当たり前だがここまで私も彼も警戒は解かず、杖もいつでも向けられる姿勢だった。
しかし寝てしまった彼女から目を離して、私は離れていた従者に静かにこっちに来るように合図した。
彼女だって負けを認めたならそのまま去ってもよかったはずだし、怒ったなら何か仕掛けてきてもいいはずだ。寝るというのはありえない。
まだ頭が本調子じゃないというのが実際のところだと思う。回復した頃に改めて話をするしかなかった。




