“ヂゲリュツ城の解放” その3
意外なことに子供たちをドラゴンのいるヂゲリュツ城に連れていくつもりだったのはネゾネズユターダ君だった。始め私は乳母車の三つ子以外は置いていく予定だったし、メイドも何も言わなくても預かる態度だった。
「え? 子供たちを置いていくの?」ネゾネズユターダ君は想定もしていなかったという言い方だった。
「え? 連れていくの?」
「ほら、万が一があるじゃないか」
万が一って普通は自分たちが負けるとか死ぬとかだよね。「その万が一に備えてだけど」
「いやいや。親の死に目にあえなくなるじゃん」
「どういうこと?」
「どういうこと?」
「私たちが死んだらその場に子供たちが置きっぱなしでしょ? メイドと護衛の兵士だけで逃げられると思うの?」
「死んだらこの子たちはいつまでもここで帰りを待つことになるよ。そんなのは駄目だ」
側で仕えていたブユ族の世話係が助け船を出してくれた。ブユ族では——というか南西蛮族の間では——親や子が死ぬところをはっきり目撃することには気持ちを切り替える効果があり、なるべく見た方がいいという価値観なのだという。生きて帰るのを家で待つというのは切り替えを妨げるのでよくないそうな。
「え? 戦場に家族を連れてくの?」
「そのときは死体の一部を持って帰って家族に見せる」
ネゾネズユターダ君は当たり前という感じで説明したけど、私を含め北の人間がドン引きである。
話し合いが始まった。急いで出発しないと日のあるうちに帰れないのに。
そもそも万が一負けたらという話をすると暗い結論になる。ネゾネズユターダ君が死ぬだけならあまり影響はない。しかし私が死んだらどうなるかというと、ちょっとわけの分からない事態になってしまう。子供たちはギュキヒスに連れていってもロクなことにならない。最悪殺される。私の希望はこのままブユ族の家族として引き取られることだ。ここの方がかわいがってもらえるだろう。そうするとギュキヒスから見ると王の姪っ子が南西蛮族に奪われたということになる。そこから先はあれこれを巻き込んだ大陸中の混乱に発展するだろう。
「要するに改めて、逃げるならとっとと逃げるのがいい。やるからには勝つしかない。勝てば問題ない。負けて死んだらもう子供を連れていくとか連れていかないなんてどうでもいい、と」
私が言うとその場にいた人間が全員、納得はしてないが理解をしたように口をつぐんだ。メイド、私の地元ギュキヒスから派遣された兵士、南西蛮族の護衛たちと世話係。
「あとは、悪童妖精に目をつけられて、それを撒いて逃げきれる可能性がどれだけあるかだね。逃げるのは性に合わないけど」状況をまとめると意外と退路が絶たれてるな。やる気だったので気づかなかった。「けど、ここにいる全員を引き連れてドラゴン退治とかやばくない?」
みんな何も言わない。
ネゾネズユターダ君が口を開いた。「それを決めるのは君だよ」私を指差す。
この場では誰も言わなかったけど、このときの認識では悪童妖精に目をつけられたのはネゾネズユターダ君だという理解だったので、彼を差し出すというのも選択肢としてはあった。だからこの時の彼の態度はあまりいけてない。「僕が単身で犠牲になる」と言い出さないといけない場面だったのだ。もちろん私がそれを承認しないのは承知の上で、自己犠牲を申し出るというのは周囲を納得させるために必要な儀式だった。今回はそれを省略したせいで少し空気が悪くなった。また別のアイディアとして古典的な、子供を生贄にして怒りを鎮めるというのもあった。私の頭には浮かんでなかったけど一部の使用人たちの考えにはあったそうだ。
何かを犠牲にするというアイディアは難しいよね。そんな発想は慣れていないと出てこない。
「まあ、じゃあ、私の決定を告げよう」私は言って、出発の準備で用意されていた私の杖を取った。「この場にいる全員で出発。子供たちも一緒。一致団結してヂゲリュツ城をドラゴンから解放する」
そして『戦意高揚』の魔法を唱えた。部屋の中にいた全員が手を掲げ、「うおおおー!」と雄叫びをあげた。女の使用人たちも万歳をしていた。
なんの説明もせずにいきなりの魔法で申し訳ない。『戦意高揚』は歴史の古い魔法で、さらに他の古代魔法と違って『眠り』と同様に今でも使われる一般的な魔法である。恐怖心がちょっとだけ薄れる効果があり、戦場のラッパや太鼓のように、儀式的に使われている。しかし立派な精神魔法の一種なのでかっちり唱えるとやばいくらいの効果がある。こういうときに唱えるには最適の魔法だった。
ネゾネズユターダ君にも効いてたのかは分からない。ただ、まあ、乗っかるしかない状況だったのは確かだ。結果オーライである。




