第九十話 消えちゃった(6)
「ちっ」
ハロスは舌打ちした。
「ルナに何か話せよ。お前の知っている話を。どんなものでも良い。ルナは喜んで聞く」
ルナは早速手帳を広げて鴉の羽ペンを取り出していた。
「話って言われてもな……なんで人間なんかに……クソッ……まあ良い。あいつの話をしてやろう。オノレ・シュブラックの話を」
「誰だそれは?」
ズデンカは訊いた。トゥールーズ人とは推測がついたが、全く聞いたことがない名前だった。
「知らなくて当たり前だろう。その男はこの世から跡形もなく消えちゃったんだからな。出生証明書から、学校の記録、書き残した文章、おそらくは全てがなくなった。そんな男がこの世にいたことを知っているのはおそらく俺だけだ。かなり貴重な話だぞ。訊きたいか?」
「メチャクチャ面白そうじゃないですか! 訊きたい訊きたい!」
ルナは浮かれ出した。
「よし、じゃあよく訊けよ」
何だかんだ言ってハロスはチョロい。
少し煽てればどんどん話し始める。大昔の記憶でもかなり冗長な話を訊かされた経験がズデンカにはあった。
これは今から七十年ほど前だ。
俺は二十代の時に吸血鬼になっているから、十年目ぐらいの頃だな。まだ戦争が始まる前の穏やかな時代――と言いたいところがその頃から相変わらず戦争はあった。
とは言えトゥールーズと今のヒルデガルトの小さな戦争だ。当時はまだ王国だったな。
俺はそのころは西側に興味を持って旅して回ってたな。ズデンカと知り合いになれたのもその頃だった。
で、トゥールーズに行ったのはズデンカと別れてしばらく経った後だった。
相変わらず酒場に出入りして話を訊くことを繰り返していたよ。
俺は吸血鬼だから酒は呑めないんだが、当時はまだ吸血鬼になって日が浅かったこともあって、人恋しくなっていたんだろう。
もちろん、人間の愚かしい姿を眺めるという最大級の娯楽を楽しむために、と言う目的もあったがな。
案の定、店に入ればすぐに刺したの刺されただの、言い争いが巻き起こる。戦争中だからなおさら皆血の気が多かった。
そのさまをじっと観察するのが日課だった。何せこちらは死ぬことがない。傷を受けても元に戻る。
もちろん俺のなりを見て、声を掛けてくる奴もいたが、そいつらの血は美味しく頂いた。
そんななか、騒ぎには荷担せず、店の奥の止まり木に座って一人で酒を呑んでいた男がいた。
「どうした、兄ちゃん」
俺は隣に座って声を掛けた。
「あなたはどなたですか?」
疲れたような声で男は答えた。
「酒を奢るよ。おい、マスター」
俺は自分では呑めないから男に一杯奢った。
「ありがとうございます」
「兄ちゃん、名前は何て言うんだ?」
「オノレ・シュブラックです」
「戦争帰りか?」
「よくわかりましたね。除隊されたんです」
「それは運が良かったな。あんなもんで死ぬのはまっぴらだ」
俺はその時はまだ死という概念がある程度はわかっていた。
「愛国心はないのですか」
シュブラックは残念そうに答えた。
「外国人なものでね」
「そうですか……まあ私も戦争は嫌です……いやな思い出ばかりです。東部ではまだ負け戦が続いているんです。敵の頭に何発銃弾を撃ち込んだことか……」
シュブラックは頭を抱えた。これまで威勢良く勲を誇示する連中ばかり見てきたので、俺はさらに興味を持った。




