第八十六話 究極の責め苦(8)
「いや、そもそもすべての綺譚は続いていくのかもしれない。ずっとずっと。たぶんわたしが死んだ後も」
ルナは空を見上げていた。
「縁起でもないこと言うなよ」
ズデンカは焦った。
「でも、綺譚ってそんなもんだよ。今地上に生きてる人が死んでも続いていって、決着は最後までつかないのかも知れない。残り続けるものがあってもいいだろ?」
「そりゃ、全く関わりがないようでも実は繋がりがあるってことはあるかもしれないけどよ」
「君はいま、哲学の入り口に立っているよ」
ルナが微笑んだ。
「哲学は苦手だ」
「苦手だからいいのさ。苦手な者のほうが哲学に向いてる。さ、戻ろう」
ルナは歩き出した。
ズデンカは従った。もちろんルナの手を取って。
もう、沼地が歩き辛いとは感じなかった。ルナの手を握っていても悠々と歩き通せた。
「相変わらず冷たいね」
「余計なお世話だ」
「でも冷たいぐらいがいいんだよね。生暖かいのはちょっと、ね」
「な、何を言う」
ズデンカは戸惑った。
「感想を言ったまでさ。そう言えば君と久々に二人で話すね」
そう言えばそうだった。ズデンカがズッと求めてきていた機会だ。
心のうちで。
だがズデンカはとても口が回らない。言いたいことはたくさんあるのに口に出せない。たぶん、旅の仲間を悪く言ってしまうことになるからだ。
とくに先日出ていったカミーユ・ボレルにはいろいろ思うところがあった。
だが、今はいくら考えをまとめても罵りにしかならなそうだ。二つの人格を持ち合わせていることを知ってもなお、腹が立ってくるのだから。
「どうしたの? 渋い顔をして」
「渋い顔なんかしてねえよ」
「でも、眉根に皺をよせてるじゃないか」
「気のせいだ」
ズデンカは足を進めた。
やがて沼地は終わる。
「おーい!」
遠くでジナイーダが大きく手を振っていた。
「待たせたな」
ズデンカは言った。
「ほんと待ったよ……あの人なんか怖くて……」
ジナイーダは肩を竦めた。
大蟻喰は腕組みをしてこちらを睨んできていた。
「おいズデ公。ルナに何かしなかったかい?」
「何もしてねえよ。お前こそジナに何もしかなったか」
「こいつ、ビビリだよな」
大蟻喰はにんまりと薄気味悪い笑みを浮かべた。
「あ?」
ズデンカは腹が立った。これまで辛抱ずく耐えて待ってくれていたジナイーダを笑われたのだから、我慢らなかった。
「吸血鬼の癖にビビリって情けないんじゃないかって思ったんだよ。死ぬ心配はとりあえずない訳だ。なのに、ボクを見て怯えてる。死ぬ危険性ならはるかにボクの方が高いのにさ」
「吸血鬼も若いうちはひ弱なんだ」
ズデンカはジナイーダを抱き寄せながら言った。「死にやすい」と言おうとしたが、ジナイーダが怯えの様子を見せたので、違う言葉で補った。
大蟻喰の言うことも正解なのかも知れない。
ジナイーダはさまざまな地域を旅してきていた。度胸はあるほうだと思うのだが、大蟻喰は苦手のようだ。
怯えたと見た相手には何をしても構わないと思う輩は、残念ながら多いのだ。
内心で怯えていたとして、その色を見せないのも世を渡るコツなのかも知れない。
ジナイーダが育ての親から捨てられたのは、そういう部分もあってのことではないか。




