第八十三話 常識(13)
「すまん」
ズデンカはルナを優しく床に立たせた。
「なんか、ちょっと怖かった……」
ルナは言葉とは裏腹に小恥ずかしそうな表情をしていた。
「お前をこんなやつから引き離さなければならないと思って……つい……力を入れてしまった」
「こんなやつって誰だよ」
大蟻喰がすかさず口を挟む。
「お前だが」
ズデンカは睨みながらまたルナを遠ざける。
「過保護すぎるんだよ、キミは」
「なんだと」
「ルナに対して過保護なんだよ。独りでもルナは大丈夫でしょ? キミがルナと暮らし始めたのはそんなに長くないはずだ。それまでルナは独りでやってきた。そうじゃない?」
「お前は見てきたのか?」
図星ながらズデンカは不愉快になって訊いた。独りのルナがどのような生活を送っていたかを知らないのは大蟻喰も同じはずだ。
……ルナの周りの人間を喰ったのでない限りだ。
大蟻喰もそのあたりのことははっきりさせず、いたずらっぽそうな眼でこちらを見詰めてきた。
「さあね」
「でも……いろんな人のお世話になってきたし……やっぱり……わたしは独りだけじゃ……何も出来ないのかな……ズデンカと一緒にいたいな」
ルナは不安そうに言った。なぜかズデンカの身体をギュッと抱きしめ、熱く眺めていた。
――こんな時だけ名前呼びとか、ずるいだぞ。
ズデンカも心だけは熱くなるものがあった。身体はどうやっても熱くならないのだから。
「何だよ……キミたち……いつのまに……」
大蟻喰も少し驚いているようだった。
「寂しいよ。ズデンカ……」
ルナは普段は意図的にズデンカの名を呼ばないようにしている。それが呼ぶと言うのはよっぽどのことだ。
お互いの苦しみはわからないとしても、身体を寄り添わせることだけは出来る。
「もう、出よう。こんなところにいちゃいけない……」
「でも……」
「まさかお前、自分の記憶から幻想を作り出そうとしたんじゃないよな?」
「そうだよ。何か少しでも手掛かりがあれば……って」
「バカ。だから苦しむんだ」
ズデンカは強くルナを抱きしめた。ルナも抱き返す。
しばらくの間ずっとそうしていた。
「もうこんなところは、出る。何も収穫なんてなくてもいい」
ズデンカはルナを離すと、その手を握って外へと歩き出した。
大蟻喰もバルトロメウスもジナイーダも、しぜんとついてきた。
「結局無駄足だったね。つまらないの」
と大蟻喰。
「お前もいたんだろ? 何か発見はなかったか」
「何もないよ。いて嫌だったところに戻ってきて何が嬉しいの」
「……」
ズデンカも特に返す言葉はなかった。粗同意見だったからだ。ともかくこんな陰気くさい場所にいるのは耐えられない。
ルナの手を引っ張りながら闇の中を扉へと突き進んだ。
「ズデンカ」
ルナはまた名前を繰り返した。ズデンカは名前を呼ばれる度に、変な気持ちになってしまう。
「これから辛いことあるかも知れないが、何があってもあたしが守ってやる。だから、苦しいとか寂しいとか。もう考えんな」
そう言うとルナは黙ってしまった。
「ズデンカさん」
バルトロメウスが声を掛けて来た。
「なんだよ」
ズデンカは邪慳に言った。
「手掛かり、ありましたよ」
「なんだと、早く教えろ」
「後で話します」
バルトロメウスは静かに言った。その瞳が黄色く輝いていた。
ズデンカはそれでもう夜だと思った。




