第八十二話 三つの願い(5)
しかし、容易には掴まらない。パスロの皮膚は手を滑らせる。
ズデンカには目を向ける様子もない。頭は鰐のように牙を生やし、より物凄い勢いで、周りの人々の内臓を喰い破っていた。
それも、あえて虫の息で放置する厭らしさで。
ズデンカは血まみれになりながら、パスロに縋り付いた。
またもぬるり。
「クソッ、何だよこいつは!」
ズデンカは叫んだ。
――ルナが危ない。
ズデンカの頭に真っ先に浮かび上がった言葉はそれだった。
死にゆく人々を助けようとすら考えずに。
――こっちの部屋に来るんじゃねえぞ、絶対に。
食堂車内は血まみれだった。ひくつく臓物の臭いだけがした。
ズデンカには、それだけが確かな臭いなのだったが。
素早く前に走り抜けて、ルナたちがいた車輌に続くドアの前に立った。
「ここから先へはいかせねえよ!」
ズデンカは叫んだ。
「ルナさんにも見せてあげましょう! 喜びますよ、きっと。ルナさんは血を見て悦ぶ変態ですよ。あなたも知ってるでしょう?」
カミーユは笑いながら言った。
実際ズデンカはルナにそういう側面があることをよく知っている。
「ルナは、人の死を悦んだりしない。普通と比べて変わっているだけだ」
普通が何か、ズデンカも知らない。
ルナが、本当に人の死を悦ばないのかすら、知らない。
「なんとしても通さないようですね」
カミーユは言った。
「ああ、絶対に通すかよ!」
「なら、まーいいや」
カミーユは後ろを向いた。
「もう一つの願いを叶えることにしますね。ついてきて、パスロ!」
そう言うと、物凄い速さでズデンがいる方向とは逆へ歩き出した。
パスロもそれに続く。
驚異的な速さだ。パスロに並ぶぐらいだから、人間が出せる速度の限界かと思われた。
――カミーユは生まれながらの天才です。
同じく処刑人のメアリー・ストレイチーはそう言っていた。
何もかも常人から掛け離れた天才。
今までは、大人しい仮面を被っていただけなのか。
いや。
――前までのカミーユも確かにカミーユだ。今のカミーユもまた、カミーユのように。
そこでまた、思い至った。
「もう一つの願いを叶えに……行く? 何をだ?」
ズデンカは記憶の糸を手繰った。
――あの男は、何を願った?
あのような大人しそうな男が、心に破壊的な願いを抱いていると誰が知ろうか。
だが普通は抱いていたとして、じっと心のなかに秘められたままで終わる。
――誰かが、解放してやろうとしなければ。
それがカスパー・ハウザーだった。
そして、カミーユ・ボレルもまた、その轍を踏もうとしている。
『この列車を爆破してやろうと思っていました』
――カミーユは機関室へ向かったんだ。
この列車を爆破する。
窓の外を見ると、ちょうど渓谷へ掛けられた橋へさしかかっているところだった。
――これを見越してか。
ズデンカはそう考えた瞬間には走り出していた。
血が、どの車輌にも溢れていた。
パスロが食い散らかしたのだろう。足が滑って思わず、天井を掴んで止まる。
――クソッ。追いつかねえ。
機関室はすぐそこだった。
爆音が静かに轟いた。
臭いがわからないズデンカでも何となくわかった。
――これは火薬だ。




