第八十二話 三つの願い(4)
蛇の毒液が、男の喉を楕円形に汚していた。
「あっ、あっ!」
涎まじりの血を噴き出しながら、男は口をパクパクと動かす。
「私は……私は……この列車を爆破してやろうと思っていました……こんな、俺を馬鹿にするようなやつらは死ねばいいと思っていたんです……! それから、ここにいる奴らのはらわたを一人残らずくり抜いてやろうと思っていました……もちろん、眼の前のお嬢さん、あなたは除いてです……最後の願いは……そうだ……この私に最高の力を与えてください……せっかく『鐘楼の悪魔』を手に入れたのに……この本は何の力もくれなかった……だから、私を強くしてください! 誰よりも強くなりたいのです!」
蛇に喋らせられているのか、本心なのかはわからないが、男は嘔吐きながら声を上げた。
毒は既に全身へと広がっており、顔は紫に染まっていた。
「『鐘楼の悪魔』だと?」
ズデンカは驚いた。
『鐘楼の悪魔』はカスパー・ハウザーがトルタニア各地に拡散させまくった本だ。
ハウザーが死んだからと言って、消滅したわけではなく、各地に残り続けているはずだ。しかし、ハウザーの精神と連結されていないため、以前のような悪さはできなくなっている――と思っていた。
「残念だけど、その本は今無意味です。でもね……」
突然蛇の首が膨れあがった。
骨を砕く音がミシミシと響く。
男の頭蓋が圧迫されて弾けたのだ。
蛇はたやすく男の頭にかぶりつき、全身を食い尽くした。
元々の大きさの二倍ほどの大きさに脹れ上がり、どす黒く染まったテーブルクロスの上にのたくった。
「ズデンカさんには言ってなかったけど、このトランプには『鐘楼の悪魔』と同じ者が使われているんです……畢竟、ルナさんの力です」
「なぜだ! なぜお前が!」
ズデンカがそう叫んだ瞬間、蛇の身体がどんどん大きくなり始めた。手脚が生え、蜥蜴のような形状へと変わる。
「この子は食べた物を何でも自分のなかに取り込んじゃうんです。ふふふ……なんだか大蟻喰さんみたいですね。つまり、この子=あの人ってことになんですよ。ついでに『鐘楼の悪魔』の力も取り込めるし、なんか凄いですよね。三つのお願い、これから叶えますね!」
蛇――いや、パスロは赤い口を大きく開き、そろそろ上京に気付き初めて右往左往し始めた乗客たちへ跳びつこうとした。
「やめろ!」
ズデンカは勢いよくパスロへ飛びついた。
これまで相手をしてきた『鐘楼の悪魔』が作り出した不気味な化け物たちと似たような感触がする。
だが。
ぬるりと手をすり抜ける。
まるで蛙の皮膚のようだった。
テーブルを跳躍しながら、周りにいる人々の腹に齧り付きはらわたをくり抜いた。花が咲くように大腸や小腸が引き裂かれ、血を撒き散らしながらパスロの口の中に吸い込まれていった。
――早い。
ズデンカですら視認するのがやっとだった。他の人間はもうひとたまりもなく、はらわたを吸い尽くされていく。
食らい付くすごとにパスロは巨大に巨大になっていった。それで動きが鈍るかと言えばそんなことはなく、ますます敏捷に敏捷になっていく。
――一体何がしたいんだよ、カミーユ!
ズデンカは両手を強く握り締めた。爪が食い込むほど。
意味のない虐殺だ。
カミーユには目的がない。
ルナの模倣をしているようだが、どこか歪だ。
だが、ぼーっとしている暇はなかった。
ズデンカはまた、パスロに向かっていった。




