第七十七話 鷹(7)
長い廊下を抜ける。物凄い駆け足だった。我ながら驚いたさ。
ドアを開け放つ。
「あらあら、どうしたの?」
きょとんとした顔付きで、老婦人は振り返る。
眼の前にはお茶のポットが置いてあった。俺が来るのを見て、老婦人は空のカップにお茶を注いでくれた。
「あなたは子供はいないと仰いました。でも、さきほどシュトロハイムさんからうかがったところでは……その……男の子がいらっしゃったと……そして……鷹が好きだったと……」
「ええ。あの子は鷹が好きでした。でも、鷹を探して……どこかに行ってしまって……もう、二度と会えません」
老婦人は静かに言った。
「いえ、ひょっとしたら……なにか……」
俺は二の句が継げなかった。自分でもよくわからないのだった。溢れ出す感情が喉を塞いでいた。
自分がどこのルーツかなんて、ちっとも気に掛けたことはなかった。
ゴルダヴァは隣国だ。
ヴィトカツイの人間とそう顔付きも何も変わらないし、俺だって昔から何度も何度も国境を越えていた。
俺がこの眼の前にいる女性の息子だとしたら、ここで別れていいものか。
今ここで最後の別れになってしまうのではにないか。
俺はなぜか、そんな予感がした。
老婦人自身、いつ死ぬかわからないと言っていた。
「あの……その……息子さんの話を少しばかり訊かせて頂けませんか? もし、今後旅先で会うことがあれば伝えられるかも知れない」
俺は言った。
「息子が出ていったのは四歳の時のことです。まだ物心も着く前なので、とても覚えていないでしょう。会ったとして気付きはしないと思いますよ」
「どちらの方向へいったかぐらい、わかりませんか?」
「もういいのです。死んだ者だと思っております」
「世の中には、もしかしたら、ということも起こるものですし……」
俺は必死に続けた。
鮮やかに思い出していた。幼い頃の記憶。かなり変わっていたが似たところにいた覚えがある。
俺は老婦人の息子で間違いないのだ。大分変わってしまったが、優しい声を覚えている。
ああ、そして、鷹の剥製。
小さな俺はどうしてもその頭の上に登りたくて仕方がなかった。
でも、登れなかった。その後悔の思いがまだ頭の底に焼き付いていた。
ある日俺は庭で空を飛んでいる鷹を見た。剥製とは大違いだ。
悠々と翼を広げ、太陽を背に受けている。
いままさに、生きているのだ。
俺はその後を追って駈け出した。そうだ、廊下を駆けた時みたいに。
人々の声が後ろで聞こえたが構わず走った。走った。
そして、この家から永遠に離れてしまった。当時の俺は、その意味がわからなかった。
泣き出したくてたまらなかったが、必死でこらえた。
見られたくない。
「あの……お願いがあるのですが……」
俺はおずおずと言い始めた。
「なんでしょう」
「また、すぐにこちらへ来たいのですが……よろしいでしょうか?」
「いいですよ。生きている限りは、お相手致しましょう」
老婦人は微笑んだ。俺の態度を不審にも思っていないようだ。
「わかりました! すぐに来させて貰います」
俺は立ち上がって、深く礼をした。
ゴルダヴァには俺とこの女性との繋がりを客観的に証明出来る資料もあるかもしれない。帰国したら何とかして探りたいんだ。
そうすれば心置きなく俺はこの人の息子だと言えるだろう。
この剥製は大した品物だ。だが、絶対他の奴には売らねえ。
大事な大事な。子供の頃から、大事な俺の物だからだ。




