第七十五話 月ぞ悪魔(9)
「まだ、この星が出来上がってばかりの頃だった。地上には何もなく、荒涼たる赤茶けた泥土が広がっているだけだった。昼も夜もなく、一日中月は頭上で輝いていた。我は月を眺めて暮らした」
「ちょっと待て、神話だとお前はアモスを試すため、神に作られたとなっていたぞ? 人間が生まれた後にお前が出来上がったのではないのか?」
フランツは驚いた。
「誤りだ。我はもっと長く生きている。人間が生まれるよりもな。アモスと知り合ったのはだいぶ経った後だ」
ファキイルは答えた。
当事者の認識と後の時代の書物の内容がかなり食い違っていることはよくあることだ。しかし、当事者の認識の多くは書簡など当時の史料でしか知り得ない。そりゃ、世の中には幽霊とあった者もいるだろうが。
しかし、まさか神話に描かれる当人から伝説を全否定されるとは思わなかった。
いったいファキイルは何年生きているのだろう。数千年程度たと思っていたが、この星が生まれた当初から存在しているとすれば、数億年単位は昔からいた可能性がある。
「もっと訊かせてくれないか? 神話事典もまだあるはずだ」
フランツは荷物を探した。
「今は、月の話でしょう?」
メアリーが言う。
「そうだったな」
フランツは手を止めた。ほんとうはアモスとのことを訊きたかったのだが。
「その頃月は地上に何度か降りてきていた。我とは一日話をした」
「へえ、無口なあなたがそんなに長いこと話が出来るんですね」
「その頃、我の話は長かった」
長い年月の経過が、ファキイルを今のような性格にしたのかも知れない。
人は誰しも変わっていくものだ。ファキイルは人ではいが。
「で、なんでその月の悪魔さんは今不動になったんですか? おりてきてもいいのに」
メアリーはまた腰を下ろし、路面に肘を突き手首に顎を乗せて興味深そうに言った。
「どうしてだろう」
ファキイルは頭を傾げた。
「既に死んでいる可能性だったあるかもしれませんね」
「そうかもしれないな。悪魔に死があるのなら」
ファキイルは言った。よくわかっていないようだった。結局、神に近しい存在は死を理解しないのだろう。
そこが人間との大きな違いだ。
「その悪魔さんというのはどんな奴だったんですか? もっと具体的には?」
メアリーはたくみに話を訊きだしていく。
「悪魔だとは本人が話しただけだ。我はわからなかった。大きな翼を持ち、長い爪があった。ただ、不思議と悪い気はしなかった」
「友達だったんですね」
「その言葉が正しいかはわからない。でも長いこと過ごしたような記憶がある。いなくなるときもいきなりだった。その後百年ほどをじっと暮らした」
「百年ほどかよ。人間だったら生涯が終わってるぜ」
ニコラスは思わず漏らした。
「どのようにしていなくなったのですか?」
「悪魔は『行くよ』とだけ囁いた。それからしばらくの間月はなくなった。虚ろな空間だけがそこに残った」
「奇妙な話だな。月がいなくなったなら、俺たちの頭上に輝いているあれはなんだ?」
フランツは月を指差した。
「いつの間にか月は戻っていた。人間が現れるちょっと前のことだった」
ファキイルのちょっと前は信用ならない。千年、いや万年の可能性もありえる。とはいえ、月が戻ってきたことは間違いないのだろう。
「戻ってきてから、お前は月と――悪魔と話したのか?」
「話していない。月はもう何も喋り掛けなかった。我はやがて人間と喋るようになった」
ファキイルは無表情で答えた。しかし、声にはそこはかとない哀愁があった。




