第七十五話 月ぞ悪魔(4)
「そいつの命はどうでもいい。逃げるならあたしは追わねえよ。勝手にしろ」
ズデンカは腕組みして言った。
「あ、『薔薇王』はちゃんと回収しとかなきゃですね。でも、まずはフランツさんを連れて帰らなくちゃ」
オドラデクは微笑んだ。
フランツはオドラデクに抱えられるがまま、ファキイルの影へと戻った。
「……まるで叶わなかった。人間が吸血鬼に勝てる訳がない」
フランツは目元を拭った。腫れてしまっているのかひりひりする。
「うっ、ううっ!」
フランツはしゃくり上げ始めた。自分でも恥ずかしいと思ったが、涙は止められなかった。
「泣いちゃった」
オドラデクは含み笑いをしていた。
「とまあ、すぐにルナ・ペルッツ一行をどうにかしようとするのは難しいでしょう。ファキイルさんとオドラデクさんが死ぬ気で頑張れば勝てるかも知れませんが、その過程でもしかしたら私たちは死ぬかも知れない」
逆に驚くほど冷静に戻ったメアリーは話をまとめた。
「お前は嫌いだけど、フランツさんが死んじゃうかも知れないなら、戻るしかないですね」
オドラデクも応じた。
フランツは否定することすら出来なかった。涙をこらえるだけで精一杯だった。
オドラデクは『薔薇王』の破片の回収に向かっていた。なんどかズデンカやルナと視線を合わせていたが、愛想笑いのようなものを浮かべたまますかさず退散して戻ってきた。
「ファキイルさんの毛を隠し味に使ってるんでしたよね、この剣は」
「そうだな」
ファキイルが小さく言った。
「でも、ズデンカさんには勝てなかった」
「……」
誰も答えを返さなかった。
フランツは『薔薇王』を手に入れたとき、これで全てを倒せると思いこんだ。だが、実際は勝てない相手がいた。
「どうすればいい……俺はこれから」
「あなたは戦いなさい。死ぬまで戦うしかないでしょう。逃げてもまた」
オドラデクは言った。
「そうだな」
フランツは涙を拭って立ち上がった。
「意見はまとまりましたね」
メアリーもフランツに倣った。
ルナ陣営の方を見ると新しい仲間が来ていた。筋骨隆々とした髭の男だ。
ずっと周囲を観察していたファキイルに訊いてみたところ、空を飛んでやってきたと語った。
「あれが、超男性のヴィトルドか?」
フランツは訊いた。
「私はわかりませんが、さまざまな話から伺う限りそれっぽいですね」
メアリーはアバウトな意見をいかにも理性的に見える修辞で飾って答えた。
ヴィトルドはこちらを睨み付けながらズデンカと何か喋っている。
敵対心を隠さないようだ。
「ズデンカさんとは話が済んでいるのに、またややこしいことになりそうですね」
オドラデクが言った。
「いえ、よく見てください。ヴィトルドとやらは、ズデンカさんに頭が上がらないようです」
メアリーのほうが鋭く観察していた。
実際、ズデンカはややキレ気味にヴィトルドに何か伝え、ヴィトルドは唯々諾々と頷いていた。ズデンカの命令には従いそうだ。
つまり、ルナ・ペルッツに危害を加えない限りは、何もしてこないだろう。
フランツは歩き出した。皆も続いた。パヴィッチ南部を目指して。
ゲリラ軍との戦闘で壊滅した地域もあるが、まだ人が住んでいる場所も残っている。




