第七十三話 飛ぶ男(11)
「さて、それでは自室に戻るとしましょう。実はしばらく寝てないんですよ。ふああああああ、ねむい」
ルナはあくびをした。
「お休みー!」
大蟻喰は妙に素直に手を振って挨拶をした。
ズデンカは何も言わず部屋の扉を開けてルナを導く。
「ズデンカぁ、退屈だったぁ!」
まだ子供のジナイーダにとっては、飛ぶ男の物語は大して面白くなかったのか、力なくズデンカの腕に縋ってきた。
――お前ももうちょっと生きたら少しは分かるだろう。
「ルナさんお疲れですね」
カミーユが静かに言った。
「お前は大丈夫か」
「ちゃんと眠りましたからね」
カミーユは答えた。あれだけの戦乱の最中でちゃんと睡眠をとったというカミーユは神経が図太いのか、それとも……。
「なあ」
ズデンカは声を漏らした。
「どうしました?」
カミーユは首を傾げた。
「いや、何でもない。どうもあたしも疲れていたようだ」
――訊けるわけねえよな。お前が二重人格だなんて。
できるだけ猜疑の色を見せないよう、ズデンカは注意を払った。
「……そうですか」
カミーユの表情は僅かに曇ったような気がした。
「お前が悩む必要はない。つい口が滑っただけだ」
「滑った、ということは何か言おうとしたんですね?」
カミーユはさすがに鋭かった。
「カミーユ! 一緒に寝ようよ! なんか独りで寝るのが嫌でー!」
ルナはぶつくさ言っていた。だが、これは口調とは裏腹に深刻な側面があるのだ。
罪の記憶を思い出したルナにとって、夜一人で寝ることは辛く、寂しいことなのだろうと推測出来た。
「えっ、私ですか? どうして? こう言うのはズデンカさんの仕事でしょ?」
カミーユはふざけて言った。
「ウチのメイドは肌が冷たいんだよ」
ルナは少しキワドい答えを返す。
「そんなに冷たいんですか! なら私が一緒に寝ちゃいましょうかねぇ。夏ですし、ひんやりするでしょうから」
会った当初なら考えられない返しだった。
カミーユは強くなっていた。
「いや、あたしは寝ねえよ」
ズデンカは焦った。
「でも独りは寂しー!」
ルナはそう言って部屋の扉を開け、中に入った。
ふかふかしたベッドがあった。ルナがダイブしようとするので、ズデンカは押し留めて蚤がいないか隅々までチェックする。
「よし、大丈夫だな」
ルナはドサリとベッドの上に倒れた。
「もーだめー、一歩もうごけないー」
ルナは眠そうな声を上げた。
「仕方ない」
カミーユは衝立の影まで歩いていって服を脱ぎ、据え置きのパジャマを着ているらしかった。
「ちゃんと着換えるんだな」
「もちろん。お祖母さまにしっかり躾けて貰いましたので」
――あたしはカミーユのことは何も知らない。
ズデンカはこのまま二人を置いていくべきかしばらく思い惑った。
いつしかルナはすーすー寝息を立てていた。
「よかったですね。すぐに寝られたようで」
長い髪をまとめ、花柄のパジャマを着終えたカミーユはベッド際まで歩いてきた。
「……ああ」
「ズデンカさん。さっき何を言おうとしていたんですか」
カミーユは優しく、しかし有無を言わさぬ口調でズデンカの方を見た。
「実はさっき北の方まで行ってきたんだが、そこでお前の幼なじみと……」
「メアリーですね」
カミーユの口調が急に変わった。無機質で、冷たい感じのものへ。
「ああ。そうだ」
「どんなことを話したんですか?」
「お前の過去のこととかだ」
ズデンカは口を濁した。
「はっきり答えてください……さもないと……」
カミーユの表情はうつろだった。手にはいつ取り出したのかナイフが握られていた。
「ルナさんを殺しますよ」
刃先はきっちり過たずルナの頸動脈へ当てられていた。




