第七十三話 飛ぶ男(6)
でも、やがて、押さえきれない焦りの感情に取り憑かれて、いきなり立ち上がっていた。
アデルベルトはあとちょっとでこの家を出ていってしまう。
僕はまた、平凡のなかに残されてしまう。
――そんなのは絶対に嫌だ。
僕は部屋の外に出ることにした。二日ぶりで見る世界――家のなかはずいぶんとシーンとしていた。
僕は唾を飲み込んだ。
何かがおかしい。
変な臭いがした。
血だ。
血の臭いだ。もう今ではすっかり慣れっこになってしまったそれを僕は生まれて始めて嗅いだ。
どこかから、臭うのだ。僕は家中をあちこちさがした。
父の部屋の扉の下のうっすらとした隙間から溢れんばかりの血が溢れだしていた。
直接触るまでもなく沸き立つように熱かった。
僕は急いで扉を服に血が染みるのもかまわずなかへ入り込んだ。
心臓が高鳴っていた。それはまだ見もしない世界をのぞき込めるのだという欲望を感じながら。
父は死んでいた。
寝台で胸にナイフを刺されて仰向けに倒れていた。
僕はしまったと思った。
もう、事件は終わった後だったのだ。
窓が開け放されていた。
熱気を含んだ風。
冷ややかなまでの色をした横顔を見せる月。
その月に向かって、一人の男が空を飛んでいた。
僕は最初それはアデルベルトに違いないと確信した。だが、何度見てもよくわからなかった。
正体不明なのだ。
月の光に照らされているはずなのに、男の姿は、影のマントに蔽われてしまっている。
――あいつが、僕の親父を殺しやがった。
そうは思いはしたが、怒りの感情は萌さなかった。
開放感はあった。でも、父を亡くしてしまえば訪れるのは荒涼たる未来だと思い当たり、寒気がした。
続いてアデルベルトを探した。でも、無駄だった。
どこにもいなかったのだ。
僕は警察を呼んだ。すぐに捜査が始まったが、アデルベルトは見つからなかった。
病身の母はショックのあまりさらに体調を崩した。
さて、非日常が訪れてみるとなんとまあ、耐え難いものだろう。僕は会話の相手すらもなく、牧師館で独り取り残されていた。
――父を殺したのはほんとうにアデルベルトだったのだろうか?
やがて、大きな疑問がやってきた。
僕はどうやら子供の頃から冷静だったらしい。
自分で言うな、と言われそうだね。
でも、よく考えると僕は空の彼方に男の影を見ただけで、アデルベルトと断定出来なかったのだ。
男ですらないかも知れない。男の格好をした女だったのかも知れない。
ペルッツさんのようにね。
これは冗談。
父の死のちょうど一年後に母は逝き、僕は孤児になった。
親戚へと引き取られて育てられたよ。まるでこれまでの暮らしとは逆のような大家族のなかでほっぺたを引っ張られ、小突かれまくる毎日だった。
でも、前のような退屈さ、寂しさを比べたら何てことはない。
結局、謎ばかりが残った。アデルベルトはなぜ父ヨハネスを殺そうとしたのか。
過去にどんな因縁があったのか。
どのような方法で殺害を決行したのか。まあこれはある程度想像はつく。
そして飛ぶ男はアデルベルトなのか。だとすればなぜ飛ぶ力を手に入れたのか。
全ては謎のままだ。
人生なんてそんなものばかりじゃないかと言われるかも知れないけど、僕はときどき何度も自問自答している。
ぜひ、ペルッツさんにはこの謎を解き明かして貰いたいですね。




