第七十二話 飛ぶ男(4)
これは僕が虎になるはるか昔の話だ。
いや、別に虎になった件とは関係ない。もし知りたいのなら生憎だったね。
ヴィトルドさんが空を飛んでやってきたので、つい思い出しただけだ。
飛ぶ男のお話だよ。
当時、僕はまだ子供で家族と一緒に暮らしていた。
牧師の父ヨハネスはとても厳格な男で、超自然的なものなどこの世にはありえないと断じていて、家族にもそれを強要していた。
そのわりには家の中には珍しい本がたくさんあって、ペルッツさんが紹介しているような不思議な話が載ったりしていたのだから奇妙だ。
たぶん、牧師館を訪れた人たちが寄付していってくれたものを、ヨハネスは読まずに書斎に積んでいたんだと思う。
父の目を盗んで僕は本を読み耽った。
すっかり不思議な世界に魅せられた僕は、何か自分の周りでも不思議な出来事が起こらないかと気になっていた。
あまりにも平坦な日常過ぎたからさ。田舎だから何も起こらないまま、朝夕変わらず一日が過ぎていく。
父からは毎日勉強を怠るんじゃないといわれていたが、僕はそんなものはそっちのけで珍談奇談の本ばかり読んでいたね。ヨハネスは一人息子の僕には牧師になって仕事を継いで貰いたかったんだろうな。
そしたら、向こうから変わった出来事がやってきたんだ。
牧師館に来客があった。とても背が高い――今の僕のようにね――男で、少し猫背気味で歩いていた。
どうやら、ヨハネスと旧知らしい。
玄関から入ってきた時、ヨハネスの顔が瞬時にして青ざめるのがわかったんだ。
男は父を見てニヤリと笑った。
何か俺はお前の過去を知っている初戸でも言いたげな様子だった。
それを見た時、僕は冒険がいままさに始まったと勢い付いたんだ。
――僕の人生はこれまで退屈だったけど、とうとう面白いことが起ころうとしている。この男は厳格な父の過去を知っているのだ。きっとそれは悪徳にまみれたものに違いない。虚飾の皮が引っぺがされる瞬間がとうとう訪れたのだ。
僕は興奮した。
いつしか父が憎くて憎くてたまらなくなっていたんだろうね。人生を押しつけられたら誰だってそうなるさ。
「懐かしいな」
男は短く言った。
「ああ、アデルベルト」
ヨハネスは答えた。
「何も変わっていない。この牧師館も、お前も」
アデルベルトと呼ばれた男は懐かしそうに家具調度を眺め回していた。
「いや、変わったよ。俺はもうすっかり年老いてしまった」
「大事な息子さんがいるじゃないか、ほら」
とアデルベルトは言葉とは裏腹に、鋭く僕を睨み付けながら言った。
背筋が凍る思いがした。でも、ワクワクドキドキは押さえきれなかった。
「息子に関わらないでくれるか?」
父は突然声を荒げて叫んだ。
「どうしてだ、ヨハネス」
「バルトロメウスは何も関係がない。お前とはいっさい!」
なぜだか、父は激昂して叫んでいた。
「俺はただお前の息子の顔を見たかっただけだよ。それだけのためにきた」
確実に嘘だろうと僕は思った。アデルベルトは何か途方もない陰謀を企んでいる。
おそらくは僕を父の元から引き離そうとしているのではないだろうか?
なら、願ったり叶ったりだ。
こんな退屈な田舎などすぐにでも抜け出してしまいたかった。




