第七十二話 飛ぶ男(3)
ズデンカ独りだけなら三十分で着けたのだろうが、一時間半もかかってしまった。
空はすっかり黒く染まっていた。
ヴィトルドが案内する宿は小さなものだった。前ルナたちが泊まっていたところの半分にも満たない広さだった。
ジナイーダとルナの手を離すと、階段を登り、吹き抜けになった二階に行く。
「大蟻喰さんはそちらです。先ほどの女性は別の部屋に寝かせています」
ヴィトルドは木造の手摺の向かうにある扉を指差しながら言った。
ズデンカは勢いよく開け放った。
「ああ、君か。前はヴィトルドさんが窓からやってきたのでちょっと驚いたよ」
虎に変じたバルトロメウスが穏やかに言った。
寝台には大蟻喰が目を瞑って横たわっている。やはり消耗が激しいようだ。
「戦いが起こりそうだ。大蟻喰の力を借りたい」
ズデンカは単刀直入に切り出した。
「だめだ。この人は疲れている」
バルトロメウスは苦しむ大蟻喰を優しい眼差しで眺めながら言った。
「だが、どうしても力が要る。ルナの命が危ういんだ!」
ズデンカは叫んだ。
「わたしは別にステラの力を借りなくていいよ」
後から入ってきたルナが言った。
「……誰が戦わないと?」
大蟻喰がうっすらと眼を開けてバルトロメウスを見た。
「僕が代わりに戦うよ。まだ身体も十分治っていないだろ」
バルトロメウスは心配そうに言った。虎の頭になっているので、声色で判断するほかないが。
「うるさい。こんなの何人か喰えばすぐに元通りだよ」
大蟻喰は立ち上がろうとした。
「また人を食うのか」
ズデンカは睨んだ。
「馬鹿言え。ボクはいつだって喰ってきた」
「ズデンカさん。その前に」
バルトロメウスが言った。
「なんだ」
「ルナ・ペルッツさんは綺譚を集めてあちらこちらを旅して回っているんだろう? いろいろなところで名前は聞いている」
「はいはい、そうです」
ルナがちょこんとズデンカの後ろから頭を突き出した。
「僕も一つ聞いて欲しい話があるんだ。大分昔のことだけどね」
「へえへえ、それは興味深い! 今日は二つも綺譚を書き取れることになるのですね」
「実はちょっとした謎が残る話なんだ。それでもいいかな?」
バルトロメウスは言った。
「もちろんですよ! わたしは探偵じゃないから、謎を解くことはできませんけどね!」
ルナの頬は紅潮し調子づき始めたのがズデンカには手に取るようにわかった。
「ルナに手間をとらせるなよ」
大蟻喰は釘を刺すように言った。
「手間なんてもんじゃないよ。わたしは綺譚がこの世界のなによりも大好きなんだ」
ルナが答えた。
「昔から変わらないな。いろいろ本を読んでとせがまれてた」
大蟻喰は懐かしく思ったのか、顔を少しばかりほころばせた。
「そうだよ。毎日のように言ってたよね」
ルナも応じた。
ルナの心が軽くなったらしいことに、ズデンカはとても喜んだ。
「それでは、始めてもいいかな?」
バルトロメウスは言った。
――時間稼ぎだろうか。
ズデンカは疑った。ルナが人から話を聞き取ることを普段は止めたりはしないが、今日ばかりはやってみたくも思った。
「はい! ぜひぜひ!」
ルナは急かした。
バルトロメウスは語り出した。




