第七十二話 もう昔のこと、過ぎたこと(1)
ゴルダヴァ北部――
「暑い! まだ着かないんですか、ぷんぷん!」
オドラデクは憤っていた。
スワスティカ猟人フランツ・シュルツは冷めた視線を送るだけに留めた。
とは言え、暑いことに関しては同意見だ。
「ったく、あの吸血鬼をさっさと殺してりゃいいものを、クソ女の判断で逃がしたりなんて!」
オドラデクはまだ前のことをごねていた。
「でも、居場所はわかるんだからいいじゃあありませんか」
クソ女=処刑人のメアリー・ストレイチーは短く答えた。
つい先ほどフランツ一行は綺譚蒐集者ルナ・ペルッツのメイド・吸血鬼のズデンカと会敵した。
その際、オドラデクは自分の髪の毛を一本、に忍ばせたのだ。
オドラデクは自分の髪の周囲にある情報を手に入れることができるのだ。
「でも、あそこで殺した方がてっとりばやかったじゃないですか!」
オドラデクはまだ不満そうだ。
「吸血鬼は厄介なんですって。死なないから」
メアリーは言った。
「まあ、私ちゃんは殺したこともあるんですけどね」
メアリーはすこし自慢げに笑った。
「だからどうだって言うんですか。今殺せないと意味がないですよ!」
「ズデンカは強いですからね。一人二人は死ぬかも知れない。そこそも私は殺そうとも思っていないんですよ。しばらくの間攻撃を無効化できれば。シュルツさんが話のあるのは、ルナ・ペルッツのほうでしょう」
メアリーは話を振った。
「ああ」
フランツは言葉身近に答えた。
――ズデンカは、あの吸血鬼は、ルナがビビッシェかどうか知らないと言った。
フランツはルナ・ペルッツがビビッシェ・ベーハイムでかつて大量虐殺に荷担していたかどうかを確かめたいのだった。
ズデンカなら知っていると思ったが、はぐらかされたような結果に終わった。
「あのヴルダラク、きっと嘘を吐いてますね」
フランツの心を読んだかのようにぽつりとメアリーは口にした。
「何を根拠に?」
フランツは驚いた。
「シュルツさんがルナ・ペルッツを好き、という話をしたときに、ズデンカは顔にはっきりと動揺の色を示しました。ここから導き出されることはただ一つ。はっきり意識してか、あるいはそうでないのかはわからないまでも、ズデンカはルナ・ペルッツのことを少なからず好きだと考えているということです。そういう相手に不利になるような証言ができますか?」
「……できないだろうな」
フランツは苦々しい気持ちで答えた。
「はい、そうでしょうね。だから事実とは違うことを言った。つまり、ルナ・ペルッツは……」
「皆まで言うな!」
フランツは声を荒げた。
「よろしい。どちらにしても我々の目的地は変わりません。いざ、ニコラス・スモレットの元へ……!」
「フランツを苦しませるな」
犬狼神のファキイルがメアリーを見て言った。相変わらず無表情だがわずかに敵意の色が垣間見られた。
「はいはい、わかりましたよ」
メアリーはあっさり受け流した。
ニコラス・スモレットはフランツのかつての友人で、猟人仲間だ。
シュ付近から南西の方角にいるとメアリーが言うので、向かうことにした。
――とりあえず、信じはしたが。
メアリーはかなりの情報通だ。確実な根拠がありはするのだろう。だが、フランツはこのどこか爬虫類的な表情を持つメアリーという女を心から信じることが出来なかった。
――だが、一瞬、あの時だけは。
過去友人だったという、処刑人のカミーユ・ボレルを語るときだけ、メアリーの声はわずかに感情を帯びていたような気がするのだ。
――カミーユ、とやらに会ってみないことにはわからないな。




