第七十一話 黒つぐみ(4)
「……」
ズデンカは何も言葉を掛けられなかった。
もし、戦うなと言ってもルナは戦うだろうし、ズデンカ戦えと急かすことはできない。
だが。
大理石の壁に勢いよくヒビが入った。瞬く間に粉々に砕け散る。
「無駄無駄」
ジムプリチウスは腕を組んで笑っていた。
「何度でも閉じ込めてやる!」
ルナが叫ぶとまた大理石の壁が現れて、ジムプリチウスに迫った。
しかし、ジムプリチウスは今度は素早くそれを回避し、壁に伝いに天井まで駆け上って回避した。
破壊したのとは別のテーブルの上へと乗り、睥睨する。
「いい気なもんだな。ルナ・ペルッツ、いずれ全てを失うというのに」
「わたしは何も失うものなどないさ」
ルナは静かに、押し出すように答えた。
「そうかな。お前は多くのものに頼って生きている。それを全て失えば、簡単に泣いてしまうだろ? 単に夢に見ただけで……」
「ど、どうしてそれを!」
ルナの顔に動揺が見られた。ズデンカは聞いたこともない話だった。
一年ほど前のことだがトゥールーズでルナは『鐘楼の悪魔』のせいで悪夢を見てしまったことがある。内容は聞かなかったが、物凄い勢いで泣いていたので印象に残ったのだ。
「ハウザーの遺物を覗き見たのさ。あいつのドードー鳥のなかには過去の記録がまだ焼けずに残っていた」
「そんな!」
ルナは焦っていた。
「絶対に奪わせねえよ。お前なんぞすぐ殺してやる」
「できるか?」
ジムプリチウスは薄気味悪く笑った。
「既に死んでいる吸血鬼の記憶は弄れないとしても、ルナ・ペルッツから引き離すことは幾らでもできそうだな」
「うるせえ」
ズデンカはアグニシュカを脇へと押しやると、テーブルの上に乗り、ジムプリチウスの頭を物凄い勢いで殴りつけていた。
骨が折れたと見えた。
しかし。
ゴキリ。
ジムプリチウスは逆方向へ曲がった首を自分の手で元に戻した。
「だからこれは、仮の姿だって言ってんだろ」
ジムプリチウスはからかうように身体を左右へ動かした。
ズデンカはジムプリチウスの首根っこを掴み何度も何度もテーブルに叩き付けた。
ズデンカは怒りに囚われていた。
――こいつを生かし続ける限り、ルナは不幸になる。
そんな予感がした。
根拠はない。だが、ジムプリチウスの『ゲーム』は確実に行われ、ルナから全てを奪ってしまうように思われた。
骨が砕ける音が響く。
血が飛び出し、溢れ返った。
肉片が散乱した。
ジムプリチウスの頭蓋が砕け、脳漿が湧き上がっていた。
「これで元に戻ったら吸血鬼だ」
だが。物凄い音を立てて血は逆流し、肉は結び着き合い、元のかたちへと再生していった。
「だから無駄だって」
ジムプリチウスは立ち上がった。
「どうすればお前を殺せる?」
ズデンカは言った。
「それを探すのも『ゲーム』の内容だ」
雷撃が襲い掛かった。ルナが放ったのだ。だがジムプリチウスは片手を払っただけでそれを弾き返した。
「ひっ」
カミーユは急いでそれを避けた。後ろにあった多くの酒瓶が割れ、アルコールに火が点いて一斉に燃え上がる。
「いかん! 皆逃げるぞ」
ズデンカはアグニシュカのところへもどって抱き上げると、また駈けてルナとカミーユの首根っこを引っ掴み、外へ転がり出た。




