第七十話 鬼剝げ(6)
ふと、ズデンカはパヴィッチの宿にヴィトルドとカミーユらを置いてきたことに対して不安を覚えた。
――まさかヴィトルドがそんなことをするとは……。
思えた。
だから、不安になってしまうのだ。
ズデンカは吸血鬼だ。
ヴィトルドと拮抗できるほどの腕力があるが、カミーユやジナイーダはそうではない。
男女の身長差、体格差には決定的な違いがある。
普通では勝てない。
普通でない者ならなおさらだ。
カミーユは強い。だが、ヴィトルドの強力に抵抗できるとは思えなかった。吸血鬼になったばかりのジナイーダもそうだ。
――ルナは頼りにならん。たぶん寝室に引きこもっているだろう。
ズデンカは衝動的に飛び出したことを後悔した。だが、こうするより他はなかったのだ。
汽車の窓では人影が幾つか揺れていた。
乗客がいる。
ズデンカは注意を払いながらゆっくり近づいた。
音もなく降りたつ。
――汽車の中にアグニシュカを置いていくわけにもいかんな。
引き返したほうがいいのかも知れない。だが不思議とズデンカは気になった。
と、ズデンカの鋭い視野は列車の前方で、ズデンカが来たパヴィッチ側へと向かう一団の人影に気付いた。
――あいつ、どこかで見たことがあるな。
背広を着た、陰気で神経質そうな男。
やがて、ズデンカは完全に思いだした。
フランツ・シュルツ。
スワスティカ猟人。
ズデンカには背を向けるかたちで、足を速めて進んでいる。
――ルナを、殺しに行こうとしているんじゃねえか?
ズデンカは怪しんだ。
ここで阻止するという手も考えられた。だが、今はアグニシュカがいるし、一行はぱっと見るかぎりでは女子供連れに見えたが、どこか物々しい雰囲気を感じた。
ヴルダラクの始祖ピョートルの血を受けてから、ズデンカはずいぶんとそのあたりの感覚が鋭くなっている。
ズデンカ以上の手強い相手がフランツ一行に潜んでいないとも限らないのだ。
――気付かれていないのが幸いだ。
ズデンカは引き返すことに決めた。ゆっくり飛び立とうとしたその時……。
「鬼、鬼だ!」
両手で抱えていたアグニシュカが突如叫びだした。
「止めろ!」
ズデンカは口を押さえようとしたが、アグニシュカは首を左右に揺すって叫び続ける。
「鬼、鬼!」
ルナに対してもアグニシュカは同じことをいっていた。対して吸血鬼のズデンカに対しては少しもそのようなことは言わなかった。
そしてまた人間のフランツを見掛けた後で、アグニシュカは叫んだ。
――どこか、同じ臭いを嗅いだのか。
人殺しの、多くの同族を殺めた人間。
そういう意味ならルナもフランツ・シュルツも変わりないのかも知れない。
記憶をなくしたアグニシュカは鋭敏にその禍々しいものを感じ取り、『鬼』と形容したのだろう。
考えている間もあらばこそ、ズデンカはこ方に向けて無数のナイフが投げつけられているのを視認した。
ズデンカだからこそできることで、眼にも止まらぬスピードで投げられているのだ。常人なら串刺しにされていたところだろう。
ズデンカはアグニシュカを抱えたまま避け、後退した。
だが、ナイフはフェイクだった。笑みを湛えた茶色の髪の女が高速で近付き、ズデンカの喉首を横裂きにしていたのだ。




