第八話 悪意(9)
ルナは目を覚した。
仄暗い書斎の中、一冊の本に頭を置いて眠っていたらしい。
ブルーのドレスは着ていない。いつものままの服装で縒れもしていなかった。
『鐘楼の悪魔』のタイトルがそこには書かれていた。
「えっ……あれっ……どういうこと?」
ルナは驚いてあたりを見回す。
「あたしが訊きたいよ」
ズデンカは横から身を乗り出して本を奪い取り、ぐしゃぐしゃっと押し潰した。
「ズデンカ……」
「なんだ? いきなり名前呼びして」
ズデンカは気恥ずかしく頬を掻いた。
ルナはズデンカの名前を滅多に口にしないのだ。
「うえっ……ひぐっ、ぐっ!」
ルナの目元に大粒の涙がたまっていた。
「おい、ルナ?」
「びえっ……びええええええんんっ! 恐かったぁ……ずでんかぁ!」
顔を真っ赤にし、ぼろぼろ泣きじゃくりながらルナはズデンカに抱きついた。
「おいっ! いきなり何だよ!」
「びえええん。びょええええん。こわかったんだよぉ。こわかったこわかったこわかったんだよぉ!」
ルナはズデンカに顔を押し付けながら、ぶるぶる全身を震わせていた。
「もう……ぜったいにはなれたりしないよね……ずっといっしょにいてぐれるよね……」
「あたしはずっとここにいたぞ? お前が目を覚まさなくて……」
ズデンカは戸惑っていた。ルナがこんなに泣くなんて初めてのことだ。
「びええっ、んっ! びえええええん! うっ、しくっ、しくしく!」
すすった洟をズデンカが着るメイド服のエプロンで拭きながらルナは泣くのを止めなかった。
「汚ねえ」
と言いながらズデンカはルナの頭を撫でてやっていた。
長いこと泣き続けていたルナがやっと落ち着いてきたので、ズデンカはルナを椅子に坐らせて状況を話すことにした。
「古本屋から『鐘楼の悪魔』を手に入れた客の話をお前が聞きつけた。手放そうとしないらしい。お前とあたしはそいつの屋敷まで出向いた。ここまでは覚えてるな」
「うん……ひっく……なんとか」
ルナは子供みたいに項垂れた。
「さんざん粘って何とか書斎に入り、本を回収したんだが、二日酔いで疲れていたお前が突然本の上に倒れこんだ」
「そうだったね……思い出した。すっかり忘れてたよ」
「さんざん起こしてもなかなか目覚めようとしなかったんで心配したんだぞ!」
「悪夢を……見たんだ」
「どんな夢だ? 話せ」
ルナはぽつぽつと語り始めた。
「馬鹿なやつだな! あたしがそんなことする訳ないだろうがよ」
ズデンカは呆れた。
「でも……ぐすっ……すごいリアルだったし……」
ルナの目元にまた涙が溜まってきた。
「『鐘楼の悪魔』のせいだ。お前もあの本に頭を乗っ取られかけてたってだけの話だ」
と言ってズデンカはルナの額を指差した。
「しけた幻想に報いあれ……だっけか?」
「ふふっ」
ルナが微笑んだ。
「よっしゃ。元気になったな」
ルナの頭を撫でてやりながらズデンカは思った。
――ずっと一緒にいてやることはできないがな。
不死者であるズデンカにとってルナとくらせる時間は限りがある。
いずれは、一緒にいられなくなる日がくる。
――それまでは。
考えを打ち切り、普段と違ってすっかり大人しくなったルナの様子に微笑むズデンカだった。




