第六十九話 大物(3)
フランツは嫌な気持ちになった。何か恥かしい行為を覗き見られたような。
「なんでもない。ただちょっと声が聞こえてな」
「ふむふむ。開けないところを見ると、何か怪しいものが向こう側にいるかも、とお考えなのですね」
メアリーはさすがに洞察が早い。
「そうだ」
「では私ちゃんにも聞かせてください」
メアリーは扉に耳を向けた。
「なるほど、大物を軸にした会話を延々繰り返していますね」
「そうだ。誰が大物なのかはわからない。きっと意味もないのだろう」
「いえいえ、そう断じるのは早いですよ」
「どうしろって言うんだ」
「調子を合わせます」
メアリーが意味のわからないことを言った。
「調子? だと?」
「まあ見ててください。ああ、そうだ。耳は扉に当てたままの方がいいですよ」
メアリーは黙った。
フランツは言われた通りにした。
「大物だってさ」
「そりゃたいしたもんだね。大物だからね」
「そうさ。大物だから大物なのさ」
訳のわからない、不条理な会話。フランツは頭がクラクラとしてきた。意味のないことに真面目に耳を傾けているのがとても馬鹿らしく思えた。
「そうだよ。大物なんだよ」
と、なんとメアリーが同じように声を上げ始めたのだ。
フランツは驚いた。だが、叫び出すことも出来ず、黙ったままでいた。
「そりゃ大したやつだ」
「そうそう、すごいやつだよ」
とメアリー。
「すごいねえ。たいしたやつだ。大物だよ」
「そうさ。大物だ」
よくはわからないにしても、なんとなく話を合わせている。
――訳がわからん。
フランツには理解できない世界だった。
無理に理解しようとすれば頭が痛くなる。
「すごいなあ。ほんとすごいよなあ。あんな大物がくるなんてさあ」
メアリーは声を張り上げる。
誰かに気付かれやしないかとフランツは冷や冷やした。
「まるで大物だよ」
「ああすごい方だよ」
「すごいすごい。ジムプリチウスさまは」
今度はフランツが声を上げそうになる番だ。急いで口を蔽い、叫びを押し殺した。
ジムプリチウスと言えば先ほどメアリーとの会話でも出てきた、元スワスティカの元宣伝相だ。
斬らなければならぬ大敵の一人だ。
もちろん、シエラレオーネ政府はカスパー・ハウザーやジムプリチウスを裁きの法廷に出させたいようだが、とても応じるような輩とは思われない。
結局は斬らなければならなくなるだろう。フランツには端から生きて帰すつもりはなかったが。
――そんな……まさに『大物』が、このゴルダヴァに来ているのか。
フランツの驚きはいまだ冷めやらなかった。
「大物だねえ。そりゃすごいなあ。大物だねえ」
メアリーは構わず会話のようではない会話を続けていた。
「大物だよなあ。ああ、大物だあ。ジムプリチウスさまがやってきてくださったんだから、おいらたちは大歓迎よ」
すこし、意味のある内容になってきた気がする。
「こんな辺境の地になあ。驚きだわなあ。大物だからなあ」
「大物だよなあ。ジムプリチウスさまはルナ・ペルッツを追っておられるらしいな」
新しい情報だ。まさかルナ・ペルッツとジムプリチウスが関わりがあるなんて。
青天の霹靂だった。
――追っているとはどう言うことだ。
そうこうしているうちに向こうの声が少しだけ変わった。
「カスパー・ハウザーが死んだよ」
「ほんとだ。カスパー・ハウザーが死んだよ」
「今さっきね」
「そう、つい今さっき」
「殺したのはルナ・ペルッツだ」
「間違いなくね」
――ルナが、ハウザーを殺しただと?
メアリーは会話に参加するのを止めて、フランツに視線で合図を送った。
フランツは扉を押し開けて、『薔薇王』を鞘から抜き、振りかざした。




