第六十九話 大物(2)
フランツは十歩ばかり後退した。
元いた部屋にはもう戻りたく気分だったがそうもいかない。
だが、一時間ぐらいはゆっくりしても良いかと思われた。
まさかメアリーとオドラデクが険悪と言っても殺し合いに発展する心配はないだろう。
勝手に二人が出ていくということもありうるかもしれないが、それならそれでいいきもした。
いや、本当は良くないのだが。
おしゃべり連中の相手は疲れる。
フランツは子供時代から振り返って、ここまで騒がしい連中に囲まれたことはかつてなかったように思えた。
――ルナ・ペルッツはお喋りではなかったか?
だが、フランツにはそう感じられなかった。
今となってはルナと一緒にいた時間はとても懐かしいものとして思い出されていた。
もし、再び会えば鬱陶しく感じられるのかも知れないが、仮にルナとあったところでもう二度と前のような関係には戻れないだろう。
――ああ。
何か強く切ない、胸を締め付けるような強い感情に襲われた。
――俺は弱い。こんなもの押し殺さなくてはだめだ。
前、旅の途中で感じた秩序への希求を思い出そうとした。
でも、無理だった。こと、ルナに対しては自分は鬼にはなりきれない。
メアリーなど殺そうと思えば殺せる。ファキイルとオドラデクはどうだ。もちろん殺せる。
勝てるか勝てぬかは別として。
だがルナは……。
――メアリーの言ったとおりだ。
『あなたはルナ・ペルッツに特殊な感情を持っていますね。そういう相手は殺せないですよ』
特別な感情。
非常に――認めたくないが恋愛に近いものなのだった。
かなわぬはずもない感情。
だが、フランツはそれをずっとずっと、長いこと引き摺ってきた。
そういう相手を斬ることはできない。斬りたくない。もし、そんなことになるんだったら猟人など止めてしまって……。
――俺、嘘ばっかりだな。
口先ではなんとしても斬らねばならないといいながら、心のなかでは大いに戸惑っている。
フランツは隣の車輌まで進んだ。ひっそりとしている。
だが、小さなささやき声が聞こえて来た。
フランツは現実逃避も兼ねて、耳を澄ませることにした。
「あいつはとんだ大物だな」
「ああ、そうだよ大物だよ」
何か金属的なざらつきもあるような籠もった声だ。
――何を話しているのだろう。
「そんなやつがやってくるなんてな」
「ああ、そんなやつがやってくるなんてな」
「すごいやつだよ」
「ああ、大物だ」
「そうだ、大物だよ」
「すごいなあ」
「ほんとうすごいよ、大物だ」
意味不明な言葉。
何かを誉め称えているのだが、内容がなく、空疎な言葉。
どこか、人ならざるものの会話のような。
――これは、聞いてしまっていいものか?
フランツは思った。
この列車ではつい先日、怪異に遭遇したばっかりだ。その時は結局わかったようなわからないような、ハッキリしないままに終わってしまった。
だが、今回はそのとき以上に禍々しいモノを感じる。
明らかにこちらに強い悪意を持っているような。
――ドアを開けて斬り掛かるか。
そんな無謀なことは止めた方がいい。前も同じ展開があった。
――戻って全員と相談するか。
と、振り返った瞬間。
「何してるんです?」
メアリーがぬうと顔を出した。星のかたちをしたピアスが揺れて煌めいた。




