第六十六話 名づけえぬもの(30)
「幾らやっても無駄だ!」
ズデンカの心の声に呼応するかのように、『名づけえぬもの』の背中の羽毛が歪んでハウザーの顔になって、歪んだ叫びを上げた。
「無駄じゃねえよ!」
ズデンカは叫び返した。
「幾らあがいてもお前らが俺に勝つことは出来ない! たとえ俺が死のうがトルタニアじゅうに拡散した『鐘楼の悪魔』は消え去りはしないからだ!」
『それは本当なのか?』
ズデンカはバルタザールに訊いた。
『はい。残念ながら。ハウザー本人はカスパールを引き抜けば殺すことが出来ますが、『鐘楼の悪魔』は残り続けます』
『なら、意味がねえじゃねえかよ!』
ズデンカは口惜しくてならなかった。
『そうでもないよ。ハウザーが死ねば『鐘楼の悪魔』の拡散は止まる。新しく広がることがないだけましだ』
ルナが口を挟んできた。
『ああ。そうだな。お前も過去の呪縛から解き放たれるしな』
ズデンカは応じた。
『ううん。もう解き放たれてるよ』
ルナは明るく言った。
ズデンカはルナの顔を見た。
嘘ではないようだった。
手と手と握る力がより強くなった。
『いくぞ』
ズデンカは言った。
『うん』
二人は同時に目をつむり呼吸をぴったり合わせた。
光が一斉に広がり、渦巻く。『名づけえぬもの』――ハウザーの体内で満ち広がった。破裂する音がする。
砕ける音が、稲妻のように響く。
ひょっとしたらルナはかつて『稲妻翁伝』で学んだ技を使ったのかも知れない。
ハウザーの体内で稲妻を爆発させたのだ。もっともルナはイメージしたものを実体化できるので、それほど難しいことでないかもしれないが。
――あたしを伝って電流を流すなよ。
ズデンカは呆れたが、次の瞬間には、
「そこだ!」
と大声を上げて、ある一点を撲りつけた。
何かが、砕けた。
「おおおおおおおおおおおおおっ!」
『名づけえぬもの』が咆吼した。身体を前後左右に揺さぶって、ズデンカを落とそうとする。
――絶対に落ちねえぞ!
「おらああ!」
ズデンカは砕けた部分にルナと握り合わせたのとは反対の手を突っ込み、何かをえぐり出した。
ぶよぶよして赤黒いしわちゃくれた胎児のような塊。
『カスパール、カスパールです! ああ、こんなに小さくなってしまって!』
バルタザールの嘆く声が聞こえた。
ハウザーの顔面が苦悶の表情を浮かべたまま、『名づけえぬもの』の背面へと消えていく。
続いて、両側の翅が石膏のように動かなくなってバラバラに砕け散った。
全身が、瓦解していく。
身体の中に入ったままだったズデンカはそのまま外へとずり落ちた。
これまで戦ってきた難敵のあっけない消滅に、ズデンカは全身の気力が抜けるかのようだった。
「倒したんだな」
「うん」
ルナはにこりとした。もう解き放たれたとか嘯いていたが、心の底からほっとした表情だった。
「スワスティカ残党のなかで一番やっかいなやつをあたしらは倒したわけだな」
「ズデンカさん!」
その様子を見て安心したのかヴィトルドとバルトロメウスも近付いて来た。
「お前ら、なんであたしを手助けしなかった?」
ズデンカは睨み付けた。
「すみません! あまりにも禍々しすぎて、むしろ平気で手を突っ込めるズデンカさんが凄まじすぎますよ。ますます惚れ直しましたぞ!」
ヴィトルドは感嘆の声を上げる。




