第五十七話 ルツィドール(1)
ゴルダヴァ中部都市パヴィッチ――
正午過ぎの光が無惨に散り落ちていた。
邪宗門『パヴァーヌ』の玄関前で綺譚蒐集者ルナ・ペルッツの手から放たれた「何か」は、少女ジナイーダの胸を貫いていた。
外の人通りはなく、ただひたすら沈鬱な曲が鳴り響き続けるだけだった。
ルナの目はうつろで、濁っていた。まるで何者かに操られているかのように。
ルナのメイド兼従者兼馭者だが今は馬車を持たない吸血鬼のズデンカは、呆然としながらそれを見詰めていた。
――クソッ。あたしがついていながら。
先ほどルナとズデンカは『パヴァーヌ』の教祖イワン・ペトロヴィッチが元スワスティカ親衛部長カスパー・ハウザーに殺害される現場に出くわしていた。
ハウザーに何か言われたルナが突如としてジナイーダに攻撃を加えたのだ。
ルナの普段の性格を考えると仲間に傷を与えるようなことはやるはずがなかった。
――だから、油断していたのだ。
ジナイーダの胸に開けられた穴は想像よりも大きかったが心臓に入っているようだった。
即死には到らなかったが、死は避けられないだろう。
大量の血が床の大理石と絨毯を濡らしていた。
ジナイーダの顔面は蒼白になっていた。口をパクパクと動かし、何かを囁こうとするも声を出す気力は残されていないようだ。
――ジナイーダは、死ぬ。
ズデンカは確信した。
もちろん、ズデンカはジナイーダを死なせたくなかった。
ならやること一つだ。
血はどんどんあふれ出している。もう時間はない。
「おいカミーユ!」
ズデンカは声を絞り出して叫んだ。
「は、はい!」
ナイフ投げのカミーユ・ボレルは建物と外へ走り出して戦闘態勢を整えていたが、全身をぶるりと震わせて答えた。
「今からお前に、不気味なもんを見せるかも知れない。すまんが、耐えてくれ」
「はっ、はい!」
カミーユはよくわかっていないようだった。
ズデンカはメイド服の袖を引き裂いた。幾つも付いているボタンを、一つづつ外すのが間怠っこしかったからだ。
――代えは幾らでもある。
ズデンカは露わにした左の手首に爪を鋭く尖らせた右の人差し指を深くめり込ませた。即座に塞がろうとするが、何度も指で開けると、どす黒く濁った血が漏れ始めた。
ズデンカはその血をジナイーダの乾いた唇に含ませた。
血が、血の量がだんだん増えていく。ジナイーダはそれをすっかり飲んでしまった。
ズデンカは指を離した。とたんに傷は塞がってまるで何事もなかったような状態に戻った。
ジナーダが呻き声をあげた。身体全体が物凄い速度でガタガタと震え出した。
吸血鬼の血を飲んだ者は、吸血鬼になる。
それは昔から伝えられた決まりだった。どの支族でも違わず、血による盟約は重要なものとされている。
血を与えた者は『闇の親』になり、与えられた者は『闇の子』になる。
だが、ズデンカは記憶にある限り、今まで一度も『闇の子』を作ったことがなかった。
血を吸った相手は殺すか、見逃すかどちらかで、仲間に引き込もうなどと思ったことはなかった。
自分の代で全てを終わらせようと思っていた。
「うっ……ああああああ!」
物凄い叫びをジナイーダは上げる。
鞭打たれたかのように身体を海老ぞりにさせた。
顔には大きく青筋が走り、今まで流れ続けていた血は凝固して止まっていた。




