第四十五話 柔らかい月(10)
「あたしは、逢いたくないって言ったんだよ!」
ジュリツァはしばらく唖然としていたが、やがて絞り出すように言った。
「あなたのお願いではありません。お手伝いの手が欲しくなりましたね」
ルナは微笑んだ。
ジュリツァはルナを睨み付けながら、ミロスとは目を合わさずにそっぽを向いた。
「母さん」
ミロスは小声で言った。ズデンカよりも背の低い、大人しそうな男だった。
ジュリツァは答えない。
「仕方ない。ミロスさん、手伝ってください!」
ルナは束子と石鹸をミロスの手に押しつけた。
ミロスは慣れていると見えて、すぐ流しへ向かい皿洗いに取りかかった。
「お前なあ」
「幻想は便利だね」
ルナは言った。
ズデンカは後ろからその頭を張った。
だが、まだ弾力が残っていたらしい。ぷるぷるとルナの頭は揺れて、直前で躱した。
「クソッ!」
ズデンカは思わず悪態を吐いていた。
「ふふん」
「……」
ミロスはうつろな目をしながら、食器の掃除を終えた。
これは本物のミロスではない。
あくまでジュリツァの記憶の中にいるミロスだ。
ルナはそれを出現させただけに過ぎない。
「何か母上に伝えたい言葉はありませんか?」
だが、ルナは素直に訊く。
「とくに……」
ミロスは口籠もった。
「ああ、まだるっこしいな」
ズデンカはミロスに迫った。
「何か言えよ。お前が鍵なんだよ。肝心のジュリツァが黙っちまってるしな」
なぜ自分がと言う気分にもなったが、他には誰も引き受ける様子が見えなかったのだ。
「悪いと思っています。僕がこんな風になって、でも外に出るのは億劫だし、辛い記憶が繰り返し頭の中で繰り返されるんです。戦場の記憶が……」
ミロスは顔を歪めた。
「ああ、もういい! 思い出すな!」
ズデンカは焦った。
辛い記憶は繰り返されてしまうものだ。ズデンカは旅のなかでそれを知っていた。
苦しい思いは、時として人を壊す。
――あいつは、幻想なんだぞ。
居はしない存在なのだとわかっていても、ズデンカはミロスが苦しむさまを見ていることが出来なかった。
「さて、ミロスさん。ジュリツァさんに告げたいことはありますか? 逢えるのはこの機会ぐらいですよ。ジュリツァさんは黙っちゃったので、あなたに訊くしかない」
ルナが言った。
「そうなんですね。僕は、何もわからないのですが……」
ミロスは淋しそうだった。
「わからないことはないでしょう。あなただって、ジュリツァさんに言いたいことはあるはずだ。もちろん、実際はジュリツァさんがあなたに対して考えていたことが、あなたの口から出るってことになる訳ですが」
――またややこしいことを。
ズデンカはルナを睨んだ。
「僕は、僕は……」
「はぁ」
ズデンカはため息を吐いた。
「母さんが好きです」
ジュリツァが振り向いていた。
それはおそらくきっと、本人が一番息子に言って欲しい言葉だったはずだ。
だが、生前決してその言葉はミロスの口から洩れなかったのだろうなと、ズデンカは考えた。
「ミロス……」
その目には涙が浮かんでいた。
ルナが軽くミロスの背中を押す。
ジュリツァの元まで歩いていった。
二人は抱き合っていた。
やがて、ミロスの影だけがうっすらと消えていく。
「罪なことばかりするな、お前は」
ズデンカは呟いた。




