第四十五話 柔らかい月(3)
「良かったじゃねえか」
別に馬鹿にする気もなかったのでズデンカは素直に褒めておいた。
だが、そこに心なしか皮肉な響きが籠もったのは仕方がない。
「ぜひ会いたかった」
ルナはしんみりと言った。
「死んだとなぜ知ってる」
ズデンカは驚いた。
「部屋のあちこちが綺麗に整い過ぎていて生活感がない。ジュリツァさん毎日掃除をしてるんだろうね。窓辺の机に写真が置いてある。たぶんあれは息子さんのものだろう。本棚には第九と第十の『綺譚集』がない。ということは今から二三年前から息子さんはわたしの本を買わなくなっている。戦後この地域で、新しく紛争は起こってないし、兵役とか長い留守とは思われない。だから、自然と亡くなっているとわかる」
「また探偵ごっこが始まった」
ズデンカは皮肉った。
「いいじゃないか。この世界は謎に満ちている」
ルナは笑った。そして、パイプを加える。
「煙が家具に染みつくぞ。ここは他人の家だ」
ズデンカはきつく言った。
「でもー、吸いたいんだから仕方ないだろ」
ルナもそう諭されてライターを取り出しかねているようだった。
「子供じゃねえんだ。やめとけ」
ズデンカは森厳と答えた。
「うーん。ふにゃあ」
ルナはまた液状化でもするかのように四肢をだらんと広げた。
ズデンカはその頬をつねる。柔らかい。このまま元に戻らなかったらどうしようという不安が涌き上がってきた。
「人は皆孤独の中にいると知ったような口を叩く人がいる。実際、それは確かだ。わたしも似たようなことを言ってしまったかしれに。でも、逆のことも言える。人はどこまで行っても独りじゃない」
ルナがいきなり口を切った。
「言葉遊びは止めとけ。誰にも信じて貰えなくなるぞ」
ズデンカは辛辣な言葉を選ぶことにした。
「いやー、ほんとなんだってば。だって、普段われわれが手にするどんな商品だって、他の人の手を介して作られ、輸送され、店で売られているわけだろ。わたしたちは必ず他の人の存在によって生かされているんだよ」
「なんだそんなことか。お前より先に誰かが言っていそうだ」
実際ズデンカは似た言葉を本で読んだことがあった。
「そこにわたしは付け加えたい。生きている時ももちろん死んだ後だって人は独りじゃないよ」
「それも世間でよく言われてることだぜ。だがよ、死んだ後、そいつを記憶してるやつらが死ねば、そいつの記憶は消えるだろ」
ズデンカはあくまで論理的に応じた。
「でもでも! 記憶は消えていくとしても、残っていたことは変わらないじゃないか。中には本に書いたり、蓄音機で録音したりしている場合もある。その人の痕跡が全く全く消えてしまうなんてことはありえないよ。わたしはそう信じたい」
ルナはいつになく熱心に言い募った。
酷なことを言ってしまったとズデンカは思った。ルナは収容所でたくさんの同胞を自分の手で葬った経験がある。
だからこそ、消えた人間たちに何らかの痕跡が残っていて欲しいと願うのだろう。
だが。
――ルナの声色にはどこか懺悔のような感情が含まれている。
ズデンカはそう思った。
「わたしはね。あの綺麗に整えられている机を見てそう思ったのさ。母親がちゃんと毎日綺麗に拭いているんだろう。たとえ息子さんが亡くなっても」
ズデンカは何か言おうとしたが言葉は直ぐには出てこなかった。
「ふにゃあ」
ルナはまた柔らかくなる。




