第三十三話 悪魔の舌(5)
寝る時間が足りなくなって、仕事にも支障を来すようになってきました。
睡眠が浅くなったためでしょうか。目を閉じればすぐに牛の首だけが姿を現します。既にあの製造所はなく職場や家の中のあちこちを背景にしていました。
「甦らせたいだろ? そうじゃないのか」
牛の首は私の耳元で囁き続けます。
舌で舐められて、怖気がしました。
「いやだ。悪魔なんかの言うことを聞くか」
「悪魔に魂を売っても、叶えたいことはないのか? お前の妻アドリアーナと娘エリカを甦らせたくはないのか?」
「ないないない」
私は何度も言葉を重ねて否定しました。身体中に倦怠を感じながら。
でも、その空元気も続かなくなる時がやってきたのです。
二十四時間起き続けて、また短い眠りに落ちてしまった時、刹那にして現れ、横から首を舐め続ける牛の首に向かって、
「お願いだ。もうこれ以上、私を苦しめないでくれ!」
と言ってしまったのです。
「それは、アドリアーナとエリカの復活を望む、ということだな」
悪魔は狡猾に囁きました。
私はしっかりと頷きませんでした。ただ首を上下に動かしただけです。
ああ、でもそれが同意になってしまったとは。
悪魔は口元を歪めました。笑ったのでしょう。
その時はなぜ笑ったのか、わかりませんでした。
次の瞬間から夢に悪魔が現れることはなくなりました。私はぐっすり眠ることができるようになりました。
体力を回復して、再び仕事に取りかかろうと準備を始めた矢先。
アドリアーナとエリカが帰ってきたのです。
夕方、久しぶりに家の隣にある職場へ向かい、領収書や仕事の書類を纏め直して戻ってきてすぐのことでした。
玄関の扉がノックされたのです。
「誰だ」
こんな時間に私の家を訪れる者などいません。不吉な予感がしました。
ノックは何回も、何回も続きます。
「私よ、開けて」
やがて声が聞こえました。妻――アドリアーナの声です。
背筋が凍りました。
「お父さん、エリカだよ」
娘――エリカの声です。
二人は確実に収容所で命を落としたのです。最期の姿こそ見ていませんが、一緒にいて生き残った方の話も聞いています。
「神さま、私をお守りください。邪悪なものたちからお救いください」
私は何度も祈りました。でも、ドアを叩く音は止みません。
近所の人の騒がしい声も聞こえて来ました。私は妻と娘がいるなどと告げてはいません。不審に思われないでしょうか?
恐怖と外聞を計る心。色んな感情の板挟みになりながら、私はドアを開けることが出来ませんでした。
「どうした? お前の望みは叶ったじゃないか」
悪魔の嘲笑う声が聞こえました。
「叶ってなどいない。第一お前なんかに頼んでもいない」
「お前は首を動かしたぞ」
私はその時己の失錯を悟りました。
「取り消せないのか」
悪魔は答えません。
私は悪魔の舌を探しました。部屋の隅に置いてあった小函の中に収めてあったのです。
急いで暖炉に向かい、火を点してそれを引っ繰りかえしました。
幾枚もの乾涸らびた舌ははらはらと炎の飲まれて消えていきます。
ほっとして振り返ったのも束の間。小函の中にはまだ舌が一枚残っているではありませんか!
それも尖端に当たる部分でした。




