第三十三話 悪魔の舌(2)
「失礼します」
男はぼそりと呟いた。四十、いや五十はいっているだろう。額には皺が刻まれていた。
「いえいえ」
ルナは脱帽した。
ズデンカはなぜか腹が立った。
もちろん、男が好きではないのはあるだろう。
とは言え、今まで旅先で知り合った男たち全てに嫌悪感を覚えたわけではない。
何かこの男の全身から噴いてくる湿った臭気とでも呼べそうなものを感じとって苛ついたのだ。
「切符の番号が手汗でぼやけてしまっていましてね。さんざん探し回ってやっと突きとめたんですよ。お騒がせして申し訳ない」
言い訳がましく男は言った。
「この汽車もなかなか巨大ですからね。わたしも探すのには時間を掛けたものですよ。初めまして、わたしはルナ・ペルッツと申します」
「あの『綺譚集』の!」
男は驚いた。
「申し遅れました。私はヴラディミールと申します。ネルダの北方ハシェクから商用で参ったものです」
「ゴルダヴァへお向かいなのですか?」
ルナは訊いた。
「いえ、隣国のヴィトカツイで降ります」
「ああ、昔わたしがいたところだ」
ルナは手を叩いた。
「それは奇遇ですな。私もです」
「あなたもシエラフィータの族ですかね」
ルナはモノクルを光らせた。
「はい。戦時中はポトツキの収容所にいました」
「ならわたしも同じです。顔見知りかも」
ルナは顔を輝かせた。
「収容所と言っても広いので、はてどうでしょう。それにあそこでのことは」
ヴラディミールは顔を伏せた。
「思い出したくないのですね」
「ペルッツさまもそうだと思います」
「過去のことは仕方ない。今だけを見て生きることにしていますよ、わたしは」
「それはまだお若いから。私のような年齢になるとすっかり萎れてしまって、もう駄目ですな。……家族を失っているんですよ」
「わたしもです」
ルナは頷いた。
「これは失礼しました。私だけの不幸のように言ってしまって」
ヴラディミールは焦った。
「人ってそんなものですよ。場合によればわたしが先に不幸自慢をしてしまっていたかも知れません」
「いえいえ、そんな」
ヴラディミールは謙遜した。
――こいつは信用ならねえな。
ズデンカは内心で吐き捨てた。
片眼でカミーユの方をみると、こちらも堅く口を閉ざしながら警戒の色を見せている。
さきほどまで喧嘩していたのが嘘のように息ぴったりだった。
――いや、息ぴったりだからこそ喧嘩したのか。
ズデンカはわからなかった。
「ところで人生経験豊かなあなたさまなら、何か面白い綺譚をお持ちなのでは?」
ルナは訊いた。ズデンカには少し皮肉がこもっているようにも見えたが。
「面白い、と言うほどではありませんが、幾つかありますね。例えばこれ」
と携えてきた革鞄の蓋を叩いた。
「これに何か入っているんですか?」
ルナは興味深くそれを眺め回した。
「はい、ここには悪魔の舌が入っているのです」
ヴラディミールは小さな声で言った。
「へえ! 悪魔の! それは興味深いな。危険なものなんですか?」
ルナは手に持ったままだったパイプをしまった。
――悪魔だと? そういや例の本も『鐘楼の悪魔』だったな。
ズデンカはなおさら不審に思った。
『鐘楼の悪魔』はスワスティカの残党カスパー・ハウザーが各地に拡散している書物だ。精神に影響を与えるようで、持った人間は異常な行動を始め、だんだん人の形を失っていく。
「いえ、蓋を閉じている限りは問題ありませんよ」
ヴラディミールはさらに声を低めた。
と、いきなり革鞄が独りでに大きく跳ね上がったではないか。




