第三十二話 母斑(4)
「どこにいるのかなあ」
広いホームを歩きながら、ルナは周囲を見渡していた。向かい側と違って、こちらにはたくさんの人がいた。
床にトランクを起き、鍵を開けてオペラグラスを取りだした。
「お前、んなもんいつのまに」
ズデンカは驚いた。
「観劇は紳士淑女の嗜みだからね」
「眉唾だなあ」
ルナが芝居を見に行くところなど、ズデンカは見たこともない。
「これでも一時期はペラゴロで鳴らしたことがあるんだよ。まあこれは新しく買ったんだけどね」
オペラグラスを持って立つ方向を変えながらルナは言った。
「なんだそりゃ?」
「オペラ狂い、ないしはマニアのことさ」
「はあ、そうだったのか。知らなかったぜ」
「戦後、なかなかオペラが盛り上がっていた時期があってね。五、六年は前かな」
ルナの経歴を全部ズデンカは知っているわけではない。もちろん当然のことではあるのだが、なんだか落ち着かない気持ちになった。
――馬鹿野郎、すべてを知ってるなんぞ気持ちがわりいぞ。
と自分を叱りながら。
「見つからないなあ」
ルナはつまらなそうにしていた。
「さきほどはあの壁寄りの列に並んでいました。そしたら、目の前をすうと」
エルフリーデが指さしながら言った。
「消えたのかも知れませんね。それならそれでいい。まさにこの世は夢幻≪ゆめまぼろし≫だ」
ルナは笑った。
「あの」
カミーユが控えめに手を上げた。
「どうした?」
ズデンカは訊いた。
「さっき、エルフリーデさんによく似た方と擦れ違いました」
「えっ」
ルナがオペラグラスを外して振り返った。
「引き返すか」
ズデンカは勢いよく人を押し分けて移動した。だが、やはりそれらしい人影は見えない。
「何だよ」
イライラして戻ってきた。
「すみませんすみませんきっと見間違えだったんです私ぃ!」
カミーユはあからさまに恐縮して、何度も頭を上げ下げした。
「いや、お前が謝らんでいい」
ズデンカは自分の態度が怯えさせてしまったことに内心焦っていた。
「うーん、困ったもんだね」
ルナは顎に手をやった。これもよくする癖の一つだとズデンカは知っていた。
「申し訳ありません。わたくしがついお話してしまったばかりに、お手を煩わせてしまいまして」
エルフリーデが言った。
「いえ。まだ、話は決まったわけではありませんよ。ほら、お知り合いが来たようです」
向こうから、燕尾服に身を包み顎髭を生やした男が歩いてきた。
「エルフリーデ、どこへ行っていたんだい? さあ、早く一緒に」
エルフリーデは驚愕しているようだった。
「人違いですわ」
「馬鹿言え、そんなはずが……君! その額の母斑はどうしたんだい?」
男は心配した様子で、エルフリーデの手を取った。
「ですから、これは生まれつきです。あなたのお捜しなのは……別の方ですわ」
「あいつがもしかしたら、ドッペルゲンガーの連れか」
ズデンカは言った。
「面白いことになってきたね」
ルナは手帳を取りだし、鴉の羽ペンで何か書き綴り始めた。
「迷惑です。止めてください」
エルフリーデは男の手を振り払っていた。
「何を怒ってるんだ。僕は君の夫じゃないか」
「ちょっとお待ちください。仮に夫婦であっても、辞めてと言われたら辞めるべきじゃあありませんかね」
ルナが口を挟んだ。
「失礼ですが、あなたは?」
むすくれた態度ではあるが流石は紳士、慇懃無礼に応じた。
「わたし、ルナ・ペルッツと申します」
「有名な方ですね。僕はヒュルゼンベックです。カザック自治領より新婚旅行で来ました」
「エルフリーデさんはあなたの奥様で本当に間違いないのですね?」
ルナは質問した。




