第百七話 運命の卵(8)
かと言って起こしてしまうのも悪かった。オドラデクが変身したバスのなかでは、ちゃんと眠れなかったことだろう。
どちらにしろ今ズデンカは動けない。
床の上で横たわったまま、むなしく時間が過ぎていくのを待っているしかないのだ。
数時間が経った。しかしその程度では復活しない。
――やはり、誰かの血を吸うしかないのか。
つまるところ、答えはそれになる。
だが、誰の血を吸うというのだ。
フランツやメアリーにはさすがに頼めない。
虎に変わるバルトロメウスは無理だろう。
大蟻喰が血を提供できるのかは正直わからない。
いずれも難しい相手ばかりだった。
「ズデンカさま」
キミコがズデンカの隣に腰を掛けた。
「私の血を吸ってください」
そう言って腕をまくり上げ白い腕を見せる。
「いや、お前の血を貰うわけにはいかない」
ズデンカは断った。
だがその実、血が飲みたくて飲みたくて仕方なかった。
もう長らく飲んでいないのだ。動物の血すらご無沙汰だった。
「ズデンカさまに血が必要なことはわかっています。このなかで一番あなたに安全な地を与えられるのは、不肖ながら私です。これまでいろいろお世話になった恩返しを今したいのです」
「お前が死ぬかもしれない」
ズデンカは短く言った。
「死にません。ズデンカさまはお優しいかたです。血をすっかり吸い尽くすなどと言うことはなさりません」
キミコはしっかりとズデンカの目を見据えながら言った。
「そんな上手く吸える自信はない」
「出来ます。ズデンカさまは器用な方です」
キミコは腕を差し出してきた。
さすがのズデンカも我慢の限界だ。
実際、血が心から欲しくてたまらないのだから。
言われるままに噛み付いた。
啜る。できる限り注意しながら吸う。
焦った。
我を忘れてしまった。食事の時は人間は誰でもそうなるという。
しかし、常に注意しながら血を啜ってきた自分が我を忘れてしまうとは、とても情けなかった。
キミコの顔には汗が流れ、少し青白くなっていた。
急に力がわいてきたような気がする。足を動かすことが出来た。
「吸すぎてしまったか?」
「いいえ、大丈夫です。これぐらい、何も出来ないんですから、当然です」
キミコは傷口を押さえながらふらふらと立ち上がった。
「誰か、手当てしてやれ」
「はいはい」
さすがにメアリーが動いた。裁縫箱から消毒薬と包帯を取り出して、傷口を手当てし、隣の部屋へと連れて行った。
隣にはベッドがある。
ズデンカはなお不安だった。もし、キミコの命を取るほど吸ってしまっていたらどうしよう。
配慮をしようという気持ちなど一瞬すらも抱かなかった。ただ欲望に駆り立てられるままに吸い続けたのだ。
――キミコは信頼してくれていたのに。
ズデンカはただ恥じた。
「そんな顔をしても何にも出ないよ」
大蟻喰はそのズデンカの様子を察したのか肩を叩いてきた。
「うるせえよ」
ズデンカは腹を立てた。
「動けるようになったんだから御の字じゃないか。大丈夫、あいつはまだ生命力にあふれてるよ。復活してくるさ。本当に弱っているやつは見ただけでわかるものだ」
「本当か?」
ズデンカはわらにもすがる思いで訊いた。随分弱気になっていると我ながら感じる。




