第十二話 肉腫(5)
「見ていないから言えるんだろ」
矛を収めてもいいはずなのに、フランツはさらに喧嘩腰になっていた。
「見てなくたっていいんです。母といるだけで息が詰まりそうなんです。どうしても、私はここから出たいんです。出たくて仕方がないんです!」
そこまで言ってサロメはうめいて、枕に顔を押し付けた。
押し殺した咳が続いた。
――話をしても無駄だ。
そう気付いたフランツは部屋を出ていった。
ベッドに横になる。
また本を手にとって静かに読み始めた。
夢の話が文中に出て来て、なかなか寝付けない自分に苛立った。
疲れてはいるのだが、どうも寝られないのだ。目が冴えてしまって眠気がやってこない。
がりがりと引っ掻くような音が聞こえてきた。
扉を開けたままにしておいたのがいけない。
きっと三つ離れた部屋からだろう。サロメがベッドボードを掻いているのだ。爪の痕が幾つも幾つもついていた覚えがある。
締めに行くのも面倒臭かった。
オドラデクが部屋の中に戻ってきて部屋の扉をぴっちり締めるまでそこからさらに一時間は掛かった。
「どうだった?」
珍しくフランツから聞いた。相変わらず眠れず退屈していたのだ。
「まあとんでもないお喋りさんですね。大半はどうでも良いことばかり。フランツさんから貰ったお金で買い物してゆっくり帰るとかで」
「娘の方も結構喋ったぞ」
「やっぱり。どんなことを話したんです?」
「早く死にたいんだとよ。母親に自分の分身みたいに扱われているのが嫌って言ってたな」
「ああ。なるほどー。頷けます。サロメが、サロメが、ってあの母親は娘の心配をするようで、心配をする自分に酔っているようでしたから。どうも、娘の窮状を皆に訴えてそれでお金を貰うことになれきっているらしい。少しでも奢って貰えるなら誰にだって付いていきますよ、あれは」
「随分意地の悪い言い方じゃないか」
フランツはちょっと焦った。
「意地が悪かろうが良いじゃないですか。娘は出ていきたいのに、肉腫が邪魔で身動きがとれない。それをネタに母親はいろんな人からお金をせびる。いい関係性ですよ。生きていけるのだからそれでいい」
「まあ俺らが関わる必要はないしな」
「母親と娘の関係なんて、ぼくら男には窺い知れないものなんですって。そっとして置くに限ります」
あの部屋に呼び込んだ当人がそんなことを言い始めている。
「お前は男か?」
「そうですか。じゃあ」
とオドラデクは顔を女に変えた。羽織っていたチョッキを脱ぎ、シャツだけの姿になると印象が違って見えた。
流石のフランツも、オドラデクの変身には慣れたようで、僅かに顔を顰めるだけだった。
「俺も母親との関係が薄いんでよく分からんな」
フランツは生まれてすぐに母を亡くしている。産褥熱での死だった。戦争末期に入れられた収容所で父を亡くし、それからはずっと一人だ。
「おや、ならこの話は止めた方が……」
と言いかけるオドラデクだったが、
「サロメ! サロメ!」
と絶叫が響いて来た。
「案の定」
オドラデクはにんまりした。
「いくぞ」
フランツは本を置いて扉を開けた。




