第百五話 師であり友である人は世に知られないまま残った(8)
「そうです。有名ですよね。カスパー・ハウザーさん。戦争中を色濃く覚えておられる方なら、なおさらそう感じませんか?」
「おぞましい。私は覚えていますよ。なぜなら、私はハウザーと同級生ですから」
アマーリエは顔をしかめた。既に五十は過ぎていると思われる中年女だ。
しかし、カミーユが遠くから見た限りのハウザーは若々しかった。
おそらく、心臓代わりに埋め込んだというネズミの三賢者カスパールの影響があったのだろうが、老いない力を得ていたのだろう。
別にカミーユは老いることを恐れていないが、三賢者の力は以外と仕えそうだと言うことに気づいた。
スワスティカによって作られたシャンパヴェールのトランプを使って呼び出した妖精が漁った人間の魂を体内に取り込んだカミーユは驚異的な身体能力を獲得していた。
「同級生ですか。先生の話は訊きましたが。そちらはまだですね。ハウザーくんはどんな人だったんですか?」
カミーユは訊いた。
「おぞましい。そもそもカスパー・ハウザーは生まれたときから名乗っていた名前ではないんですよ。誰かから付けられたものって訊きました。係累は全くいないし、どこからやってきたのかすら不明です。そういう得体の知れない人物にこの国の政治は一度任されていたってことは覚えていた方がいいですよ! 私なんてすっかり貧乏暮らしで」
とアマーリエはうなだれた。
意外に饒舌だ。よほど腹に据えかねていたのだろう。
アマーリエと貧乏暮らしとハウザーの行動との間にどんな因果関係があるのかカミーユはよくわからなかったが、ともあれジークムントが伏せていた面白い情報は得られた。
「何者なのでしょうね。そもそもスワスティカには出自がよくわからない人が多いですよね。ジムプリチウスとか」
カミーユは言った。
「ジムプリチウス! 何か最近悪さをしているようですね。あいつは直接関わりありませんがハウザー同様の小悪党だってわかりきってます!」
アマーリエは叫んだ。
「あ、それ言わない方がいいですよ、アマーリエさん」
カミーユは苦笑しながら言った。『告げ口心臓』を持ってきていたのだ。
つまり会話の内容はジムプリチウスには伝わっているかも知れない。もちろん当人が訊き飛ばしていれば伝わらないが、伝わらなかったとしても支持者の誰かは聞きとがめられる。
アマーリエは襲われるかも知れない。
カミーユ自身は殺す気すら起こらなかったが、もしそういうことにでもなれば面白いとカミーユはフルネームを繰り返して置いたのだった。
「それでは、失礼させていただきますね。そうだ。部屋の中を整えないと」
そう言ってアマーリエはジークムントのすっかり薄汚れた部屋を片付け始めた。
無造作に机の上に置かれた札束。おそらく年金だろう。箒を動かしながら、アマーリエは何度も何度もそこから抜き取っていった。
なるほど、これが目的か、とカミーユは気づいた。
恩師に報いたいなど笑わせる。
結局は貧乏暮らしの足しにするためにお金をもらっているだけなのだ。
しかしジークムントはそれを目にしながら何も言わない。
ただ静かに見つめていた。




