第百四話 死とコンパス(2)
「人間の血が……飲みたくなってきちゃった」
ジナイーダは素直だ。本音を漏らした。
「あたしだってほんとは飲みてえよ。ルナに仕えてなけりゃ、すぐにでも人を襲うさ」
「それは物騒だね」
自称・反救世主の大蟻喰がのそりと座席から頭を見せた。
「お前が言うな」
大蟻喰はたくさんの人間を食って腹のなかに収めているという。ずっと人間の血を吸うのを我慢してきたズデンカに偉そうなことを言える立場ではない。
「ズデ公みたく正義漢ぶりたがるやつが、そんなことを言い出すのは物騒じゃないか」
「別にあたしは……」
そう答えてズデンカは黙った。正義漢ぶってないかと言われたらそうではないと断言しきれないと思い始めたからだ。
――確かにあたしはそのように見えるのかもしれない。
正義と言えることをしてきただろうか。そんな自信はない。むしろ悪や不幸をばらまいてきたんじゃないかと思えた。
今まで人は出来るだけは殺さないようにしてきた。
だが、必要上殺したこともある。
「ズデ公がいくら言い訳しても、結局ズデ公もボクも人殺しだ。それはかわらないよね。でも、ズデ公は言い訳したがる」
「そりゃお前みたいに理由なく殺すやつは許せるわけがない」
ズデンカはにらんだ。
「殺すというか食べるのは楽しいよ。ズデ公も思う存分やって見ればいい」
「願い下げだ」
ルナが参入してこないので二人だけの会話の応酬が続く。
「肉を食えば血も吸える。君の好きなものじゃないかそれは?」
「何もしていない人間の血を吸えるか」
「何かした人間の血は吸えるって言うの?」
「すくなくとも何もしていないやつよりは吸いやすいだろうな」
「結局同じじゃん」
「ズデンカ、もう止めようよ」
さすがにジナイーダが仲裁にくる。
「ああ……時間の無駄だな」
ズデンカは大蟻喰を無視して、他の席に移動した。
「まだつかねえのか」
思わずオドラデクに対して憤懣の矛先を向けてしまう。
「そりゃあなたがたを振り落として走って行けば、もうちょっと早くなりますけどね」
「それじゃ意味がねえ」
「じゃあ後半日ぐらいは我慢しなさいよ。暇つぶしは色々あるでしょう」
「本なんか持ってきてねえぞ」
ズデンカは言った。長い旅の間に荷物はほとんど整理してしまっている。
それでもルナは何か『仮の屋』から持ってきているはずだ。
ズデンカは寝ているルナの鞄を開いて中を探った。確かに本が何冊かある。
分厚いのもあった。ズデンカは一つ取り上げてみて思わず、顔を背けた。
『シエラフィータ族虐殺の歴史』。
というタイトルだったからだ。普段はそのような本は選ばないルナのはずだ。なぜ選んだのだろうか。
ズデンカは早速ページをめくった。過去から現在にかけてトルタニアの各地で行われた一族の迫害について事細かに記されている。ズデンカですら気分が悪くなるような表現すらあった。
――ルナは、何を目的に。
自らのルーツと向き合いたくなったのか。ルナらしくもない。だが今現在民衆から憎まれていることを自覚しているだろうルナは、そういう本を読んで自分を重ね合わせてみたくなったのかも知れない。
「それは」
フランツ・シュルツが目を覚ましたらしく、本をじっと見ていた。
「何だよ」
ズデンカはまたにらんだ。
「俺も読んだことがある。というか猟人は全員読まされるんだ」
フランツは答えた。




