第九十七話 妖翳記(16)
海の風はきついです。あとであかぎれが出来てしまっていたことに気付いたほど。
幽霊は答えません。
「……」
だんだんだんだん。
こっちの青筋も立ってきましたよ。いつになったら立ち去るつもりなんだってね。
「おいこら、幽霊だからって人の話を無視すんじゃねえですよ」
これは失礼。今ならこんな下品なことは言いません。
完全な淑女になりましたからね。
でもその頃は野生児でしたからね。
夕食も少なかったのでお腹も空いていましたし。
「……ごめんなさい」
幽霊が謝ったんですよ。この私ちゃんに。さあ幽霊に謝らせた女として褒めてくださいね。
「わかったならさっさと立ち去ってください」
「でも、自分の力では無理なのです」
ちったあ長めに話せたようですね。一言二言ぐらいしかこいつ話せないんじゃないかと思っていたので驚きました。
「じゃあどうやったら消えるんです?」
「時間です」
「それまで待てないんですよ。見てください。唇が紫色になってますよ。このままここにいたら私、凍死してしまいますよ」
まあ死ぬほどじゃなかったんですけど、大袈裟に言いました。
「……」
幽霊はまた黙りました。
「ざっけんじゃねえよ。こっちはいますぐにでも家のなかに戻りたいんだが!」
「ごめんなさい」
幽霊に二度まで謝らせちゃいました。
でも、冷静になって言えるのはいまだからの話。
私ちゃんの怒りは留まるところを知りません。
「そうだ! 強制的に光を作り出したら消えるでしょう。燃えるものを探してくるから、そこで待ってろ!」
そう言いつけて家に引き返す私ちゃん。
「はい……」
幽霊は素直に震えているだけでした。翳は他のところでもゆらゆらと揺れています。
「ああ、寒い寒い。クソったれが」
私ちゃんは毒突きながら家に引き返し、震えているおばさまに、
「幽霊でした。燐寸お借りしますね!」
と叫んで戸棚を漁りまくり、燐寸を一本取り出しますと、家の外へ駈け出しました。
「なっ、何をする気です!」
「幽霊退治です!」
私はそう一声叫んで家を飛び出しました。
幽霊の眼の前に行くと、
「さあ待たせましたね!」
と燐寸をヒースの上に投げました。
見る見る炎は広がっていきます。夜なのにまるで昼のように、野原を焼き尽くします。
ええ、そうです。その時から私ちゃんの放火癖は変わっていないのです。
残念でしたね。
メラメラと炎に照らされて幽霊さんたちはうんともすんと言わずまたたくまに溶け消えてしまいました。
朝が来たと錯覚したのでしょう。
これにて一件落着。めでたしめでたしです。もっとも、私ちゃんは呪われはしませんでした。
いや、その後にカミーユに出会ったという事実は十分呪われたと言うに値するかも知れませんけどね。
「お前な」
フランツは呆れた。真面目な幽霊話を期待したのにメアリーの過去の犯罪自慢を聞かされるとは思ってもみなかったからだ。
それでも、これは幽霊話であることには間違いない。
「すごい興味深い! 面白い話です! 息も吐かずに記録しちゃいましたよ!」
ルナは手帳を閉じて手を叩きながら激賞した。




