罪人の禍福
四つ年上の姉が死んだのは、最高気温三十八度を超す猛暑日だった。
ちょうど夏休みで、両親は仕事に行っていて、部活から帰った亜矢が姉の部屋で発見した。
天井からぶら下がった姉は、亜矢の細い腕では降ろすことが出来ず、姉の首に紐が食い込まないように足を持ち上げながら泣き叫ぶことしか出来なかった。
倒れた椅子を起こして乗せればいいなんて、パニックになっていた亜矢には思いつかなくて、ただ姉を呼び続けていた。
その後、亜矢に記憶はないが、小学校卒業以来すっかり口をきかなくなっていた隣家に住む良太が、警察と両親に連絡してくれたらしい。
しかし、それは姉の葬儀が終わってから知ったことで、亜矢が彼に礼を言ったのはそれよりずっと後になる。
姉は亜矢の自慢だった。
有名大学に通う姉はピアノとお菓子作りが趣味で、姉の作るお菓子はお店のものより美味しかった。
亜矢が姉にそう言うと、「褒め過ぎだよ」と照れて笑った。
明るくて、優しくて、亜矢を甘やかす天才だった。
どんな我が儘も「亜矢ちゃんったら」と言って叶えてくれた。
でも、我が儘なんて言わなければ良かった。
ただ生きてくれているだけで良かった。
バイト代が入っても、亜矢に何か買ったりしなくていい。
お皿洗いの当番なんて代わってくれなくていい。
切り分けたケーキの大きい方をくれなくても拗ねたりしないし、テレビも映画も亜矢の観たいものを優先しなくたっていい。
亜矢のことなんか、嫌いになったっていい。
だから、姉を生き返らせてほしい。
叶わないと知っているくせに、あの姉になら奇跡は起こるのではないかと期待して祈った。
神様なんていない。
あの頃、そんなことはとうの昔に知っていたけれど、解明されていない広い宇宙のどこかに、亜矢の願いを聞いてくれる何かがいる気がしたのだ。
姉は美人で、頭が良くて、いつも輪の中心にいるような人物だった。
心根も真っ直ぐで、人を傷付けるものを何一つとして持っていなかった。
姉を嫌いな人間なんていなかった。
姉は、趣味で自身で演奏したピアノ曲に合わせたフィンガータットの動画を投稿していた。
素人レベルだが、流行りの曲に合わせて滑らかに動く手に少数だがファンはいた。
亜矢も姉のアカウントをフォローしていたので、動画が上がる度にファンに身内とバレない程度に、応援コメントやいいねボタンを押していた。
たまに動画に入る「間違っちゃった」の声もご愛嬌。ほとんどが、応援や好意的なコメントばかりだった。
その好意的な言葉の中に、口にしたくない酷い言葉が混ざるようになったのいつからだろう?
人気がある証拠だと落ち込む姉を励ましたが、あれは無責任な発言だったのかも知れない。
もしかしたら、亜矢の能天気な発言は姉の傷を抉ってしまったのかも知れない。
そう思うと、死にたくなった──でも、死ねなかった。
両親が悲しむから、という理由だけではない。
姉を死に追いやった者に報いを受けさせたいからだ。
姉は心無い言葉に、存在を否定されて死んだ。
自殺なんかではない、あれは他殺だ。
姉は、殺された。
許さない。
絶対に、許さない。
姉が死んで三回目の春を迎えた亜矢は、その日、遂に見つけた。姉を、殺した人間のアカウントを。
姉が死んだ後、別のターゲットに狙いを移したようで飽きもせず、罵詈雑言を書き込んでいた。
『死ね』
この単語一つで、人を殺せるということをこいつは知らない。
どんな気持ちで、人を殺すのだろう。
道端にいる蟻を踏み潰す気軽さで殺したのだろうか。
「やめろ」と言う良太の顔は険しい。
「姉ちゃんは、犯人探しなんて望んでない」
良太は亜矢の姉を、「姉ちゃん」と呼んでいる。
小さい頃は、一人っ子の良太と姉を巡ってよく喧嘩していた。
「なんで『望んでない』って分かるの?」
亜矢の言葉に、良太が「それは……」と言ったきり押し黙る。
人間は脳と身体が機能を果たせなくなれば、それで終わりだ。星にはならず、灰になる。
天国になんて行かない。天国は、ない。
地獄も、魂も、存在しない。
もう二度と姉に会えない。故に、確かめようがない。
だからこそ、姉を知ったように語る良太は亜矢を苛つかせた。
良太はどうして適当なことを言うのだろう、姉の気持ちは姉にしか分からないのに。
復讐を望んでいるかも知れないのに、なぜ、『望んでない』と決めつけることが出来るのだろう。
でも、亜矢に良太を責める資格はない。
するかしないかの二択なら、亜矢は『する』を選ぶからだ。
「なんてね、吃驚した? 犯人探しなんて、もうしてないよ」
何度も練習した姉を真似た笑い方に、良太も漏れなく騙されてくれた。
その安堵の表情を浮かべている良太を見て、亜矢は無理矢理に笑みを深めた。
裏切られた気持ちになるなんて、どうかしている。
──それから一年後。
姉の墓の前で手を合わせる亜矢は、姉と同じ年齢になっていた。
「あっけない」
姉を殺した女の最期の感想は、この一言に尽きる。
亜矢がしたのは、姉が書かれた言葉をそのまま書き込んだことだけだ。
しかし、翌日に思いもよらないことが起きた。
女のSNSのページは亜矢に便乗した悪意の言葉で溢れていたのだ。
コメントは、亜矢の書き込んだ内容が可愛く思えるものばかりだった。
女の日頃の行いもあるのだろう。最終的には本名と住所も晒され、その結果、女は命を絶った。
「……お姉ちゃん、私、人を殺しちゃった」
念願を叶えたはずなのに、死ねばいいと思っていたはずなのに──今、亜矢の心を支配するのは膨大な罪悪感だった。
「亜矢」
自分を呼ぶ声に、ゆっくりと振り返る。
まだ名前を呼んでもらえることに心底安堵しつつ、真実が彼の耳に届くのはそう遠くない日だとぼんやり考える。
「母さんが、姉ちゃんに持ってけって、花」
「……良ちゃん、これ持ってくるの恥ずかしかったでしょ?」
「うるせーなー」
桃色の花が似合わな過ぎる良太に亜矢は吹き出すが、彼は昔みたいに怒ったりしなかった。
昔なら言い合いになっていたのに不思議だ。
「ありがとう」
亜矢の言葉に、青空を背景にした逆光の良太が口角を上げる。
亜矢がしたことを知ったら、彼は二度と笑いかけてはくれないだろう。
それが恐ろしい。
だけど、もし時が戻ったとして、亜矢の選択肢はやはり一つしかない。
きっと、亜矢は同じことをする。
何度でも。
「風が出てきたし、そろそろ帰るぞ」
桜が満開の季節だが、今週は冷えると予報で言うだけあって指先が冷たい。
良太の言葉に頷いて、亜矢は供え物をトートバッグにしまう。
昨年から、カラスの被害を防ぐ為に『供え物は持ち帰ってください』という看板が立っているからだ。
この瞬間が、一番空しい。
「バッグ貸せ」
亜矢がトートバッグを肩に掛けると、良太が掌を見せる。
「なんで?」
首を傾げる亜矢に、良太が眉を顰めた。ついでに態とらしい溜め息まで吐かれる。
「持つ」
「え、いいよぅ。軽いもん」
「良くねー。亜矢にそんなでかいバッグ持たせて、俺が手ぶらで歩けないだろ」
「出たぁ、良ちゃんの見栄っ張り」
「いいから、貸せ」
良太はなかなかトートバッグを寄越さない亜矢の手からそれを奪って歩き出す。
「待ってよ、良ちゃん」
口を尖らせてずんずん歩く良太を呼ぶと、振り返って待ってくれる。
彼のこういうところは、昔から変わらない。
「……早く来い」
仏頂面の良太に、亜矢は笑顔で駆け寄った。
いつも名残惜しそうに姉の墓を何度も振り返る亜矢が、今日はそれをしないで真っ直ぐ自分の元へやって来るのを、良太は何でもない振りをして迎える。
その時、風に煽られ散った桜の花弁がぶわりと舞い上がる。
息を呑むようなその光景に、良太は目を細めた。
【完】