006.語られる母の過去は勇者の胸を焦がし
それは今から二十五年前の話である。
世界最大の大陸、カールシア大陸。
北緯六十六度を北限として南北におよそ三万キロ、東西におよそ二万キロ。北半球の半分を占める広大な大陸である。
大陸中央を横断する高さ九千メートル級の巨大な大山脈地帯で分断されているため南北の往来は少なかったが、大陸北側を横断する北海ルート、南側を横断する南海ルートの貿易路が豊かな富をもたらし、その街道が通る国は大いに発展した。
その北海ルート、北東の果てにユングスタイン王国があった。
『古の七王国』に列する王国の一つであったユングスタイン王国は、大森林と山脈から流れ込む尽きることのない雪解け水が大河を形成し、山脈の麓に高原が広がる豊かな自然に恵まれた土地だった。
築千五百年以上にもなる古い町並みが多くの観光客を呼び込み、農業と観光で成り立つ国だった。
そのユングスタイン王国に歴史的な大不作が発生する。
十月の収穫の時期にあって通年の四分の一以下となった主食の小麦ばかりか、その他自給自足の野菜などことごとく枯れ果てた。
国民たちは節制に努め、日々の蓄えを切り崩しながら耐える日々を過ごし、王国政府もまた積極果断な政策で国民の生活を支援し、食料の輸入を進めるなど国民の生活の下支えに奔走した。
しかし十二月になり冬の寒さが厳しくなる頃、さらに悪いことに伝染病が発生した。
強い感染力を持ち、感染すれば高熱を発して一週間で死に至る強烈な致死力を持っていた。
治癒の魔法は効かず、感染を防ぐ手立ても治癒する手立ても見つからないまま徒に日が過ぎて、まず年寄りが死んだ。
飢えに苦しむ家族を見かね、食い扶持を減らすため自ら命を絶つ老人が続出した。
次に子どもたちが犠牲になった。
折からの飢えで体力の落ちた子供に爆発的な感染の広がりを見せた。
どうせ死ぬのだから、これ以上感染を広めないために、と大穴を掘って高熱に苦しむ子供たちは生きたまま雪が降り積もる穴に捨てられ、焼かれた。
あるいは食い扶持を減らすため他国に売られ、それで得た僅かな金で大人たちは高価な明日の食料を買い漁った。
ユングスタイン王国政府も隣国へ支援要請を積極的に行い、また近隣諸国も要請に応じて豊富な食料を北東の果てに送り込んだが、流行り病を恐れて商人たちは輸送を嫌がり、支援が届くことは稀であった。
国民たちの怨嗟の声が大きくなったのは、一月に入り、年明けの祝賀が執り行えなかったのがきっかけだった。
無策無能の王国政府。為政者を変えろ。
寒さに震えながら、王城前で糾弾するシュプレヒコールは次第に大きくなり、王国政府の政治家は我先にと逃げ出した。残された貴族による臨時政府が発足し事態の収束にあたったが、困窮を訴える国民の声がやむことはなかった。
ユングスタイン王国最後の国王、アレンマリク二十一世は毎日のように演説を行い、国民の振り上げた拳を収めようと奔走し続けた。
しかし三月に入り、種植えの大切な時期に差し掛かる春の季節を迎えた頃。
南の番人として恐れられ、王国最強の軍を抱えるクライフクロム・クーガー南征大将軍がクーデターを起こすに至り、ついに王国は崩壊した。
狂乱の時代にあって『悪夢の六ヶ月』と呼ばれ、亡国史の最後に記述される最も凄惨なクーデター事件である。
国王と王妃はクーガー大将軍を城に招き、説得にあたったが、抗する間も与えられず斬殺された。
無能な国王に与して国民を苦しめた、という理由で残った貴族やその一族らも全て殺され、華美な屋敷は焼き棄てられた。
王城の一角でクーデター軍と激戦を繰り広げる近衛騎士団の団長に、幼い姉弟を連れて脱出するように厳命を受けたのが、十七歳という若さで近衛騎士団に入団したばかりのダニエル・アルベルトだった。
当時八歳の王女、アリスアトラ・ユングスタインと、二つ歳下の王子リデルエイトラ・ユングスタインを連れた二十名の若き近衛騎士らは西へ隣接するヴァリーク王国に保護を求めた。
西へ西へ。
クーデター軍による苛烈な追撃戦に、一人、また一人と貴重な戦力を失いながら、国境まであと百メートルという所での襲撃が過酷を極めた。
多くの近衛騎士たちが盾となり、ようやく追撃を振り切って国境を超えたものの、生き残ったのはアリスアトラを含めて五名のみであった。
王子リデルエイトラは捕らえられ、どうか生き延びてほしいと一縷の望みをかけながら、泣き叫んで弟の名を呼び叫ぶアリスアトラを抱え、アルベルトは西の隣国、ヴァリーク王国の森へ逃げ込んだ。
国境を超えて追撃の手はやんだが、暗殺の危険もあるだろう、という判断で、西への逃避行は止まることはなかった。
ヴァリーク王国の保護を求めて王都に立ち寄ったが、宿屋で謁見を待つ間に武装する兵に宿を囲まれ、見つけ次第捕らえよ、という会話が聞こえたため、息を殺して夜道を駆け、王都を脱出した。以来、諸国に保護を頼むことはやめた。
ひたすら西へ……。
日のあるうちは人目を避けて森に潜んだ。狩った野獣を食料とし、川の水をすすった。
移動はもっぱら夜の道を選んだが、枯れた枝を踏み抜く魔獣の足音に怯え、草木の重なる音にさえ神経はすり減った。
月夜の明るい日がどれほど心強かったか。
往く宛のない絶望の旅路において、肉体的にも精神的にも常に限界の連続だった。
誰ともなく死を望む言葉を吐き出したこともあったが、互いに叱咤し、いつの日か必ずアリスアトラ様の元に王国を再興しよう、と励ましあった。
両親の凄惨な最期を思い出し、浅い眠りから目を覚ましては涙を流していたアリスアトラだったが、自分の身を守れるくらいには強くありたい、と願うようになったのは逃避行を始めてすぐのことだった。
その願いに応え、元近衛騎士たちは剣術を、次いで魔法の扱いを教え始めたが、アリスアトラの才能が覚醒するのはとても早かった。
移動距離にしておよそ二万五千キロ超。六年の歳月をかけて西の果てにたどり着く頃、一流の冒険者をしてこの世界に敵う者はいない、と驚嘆せしめた十四歳の少女は過酷な旅にあってもその気品さを失うことなく、美しく成長した。
アリスアトラ・ユングスタインはアリス・ユーベルクと名を変え、西の果てから南東に足を運び、エイベルク王国の冒険者ギルドで冒険者となったのはそれから一年後、アリスが十五歳の頃である。
過酷な逃避行の果てに身につけたアルベルトら五名の冒険者パーティの優れた戦闘能力はたちまち頭角を現し、あっという間にギルドのトップランカーへと上り詰めた。
特にアリスの美貌と圧倒的な戦技が人気の的となり、荒鷲の巣窟に舞い降りた戦姫として多くの荒くれ者たちの喝采を集めた。
なお、戦姫とは言ってもユングスタイン亡王国の出身であると知れたわけではなく、あくまでその気品あふれる立ち振舞をして、いずこの国の没落貴族の出か、という噂に尾ひれがついた結果である。
今から十六年前の、アリスが十七歳になる頃。
アリスがかつての王国がどうなっているのか、見に行きたいと言い出した。
亡王国の元近衛騎士ら四名はこれに猛烈に反対し、三日三晩続けた説得の結果、アリスも不承不承納得した様子だった。
だがその日の夜、アリスは姿を消した。
アルベルトらは慌てふためき、アリスの決意に理解が及んでいなかったことを強く後悔して、四方八方手を尽くして捜索にあたった。
嘆き悲しむアルベルトを憐れみ、慰めてくれた妻との出逢いもこの時である。間もなく二人の男子に恵まれたが、アリスの行方は依然として掴むことができなかった。
危険を犯して二年の歳月をかけてユングスタイン亡王国に潜入もした。
だがユングスタイン亡王国にアリスが立ち寄ったという情報もその痕跡も掴むことが出来ず、失意の帰国となった。
なお、アリスアトラが脱出したユングスタイン王国のその後はというとクライフクロム・クーガー南征大将軍に為政者たる能力はなく、約二年ほどの無政府状態が続いた後、南に隣接する『秀和神民調和国』、通称『和国』に編入された。
ユングスタイン自治区として名を残すに留めることが出来たのが唯一の救いであろうか。
ユングスタイン王国と和国との間では、度々領地の所有権を巡って戦争という程の大規模戦闘は発生せずとも、小競り合いや睨み合いが続く緊張状態が続いていた。
その国境を守護する王国最強の軍、南の番人として勇名を馳せたクライフクロム・クーガー南征大将軍が、結果的にとは言え、和国への編入という形で侵略を許すことになったのは、皮肉としか言いようがない。
アルベルトは潜入した亡王国の地で、その将軍もまた自治区と名が変わった直後に病死したと聞いて、行き場のない怒りに身を震わせ、人知れず大地に拳を打ち付けた。
エイベルク王国に帰国したアルベルトはいつの間にかギルドサブマスターの要職を押し付けられ、次代のギルドマスターとして嘱望されるようになった。
そのアルベルトの元に、二十三歳の美しい女性へと成長したアリスと思わぬ再会を果たしたのが、今から十年前のことである。
アルベルトが知る十七歳までのアリスは瞳に光はなく、笑顔を見せることもなく、薄幸の美少女という印象だったが、美しく成長した母性溢れる笑顔を見て、女神と賛美する周囲の声に、大きくうなずくしかなかった。
今までどこに行っていたのか、何をしていたのか、と問うアルベルトに対して、子供を産んだの、と照れくさそうに笑うアリスに腰を抜かし、一週間ほどぎっくり腰に苦しむことになったのは、決して歳のせいだけではあるまい。
しかし真剣な表情で、これから世界は大変なことになる、困っている人たちを助けたいの、と訴えるアリスの言葉に、それまで留保していたギルドマスターへの就任を受諾したのは、アルベルトなりの忠節だった。
老いを感じる年齢に達してアリスの側にあるよりも、アリスを支える立場となった方が良いだろう、という判断だった。
アリスの訴えには疑問を抱くところは多くあったが、その言葉の通りのことが起き始めた。
隕石が成層圏に突入した際に発生したと思われる連続的、世界的な爆風被害、連日の大雨による洪水の発生と、それに伴う魔獣の襲撃被害、その翌年には二ヶ月に渡って雨が一滴も降らない渇水被害が発生し、世界的に不作や困窮が蔓延した。
天変地異とも言えるほどに相次ぐ異変にアリスは世界中を飛び回って救いの手を差し伸べ続けた。
アルベルトもまたギルドマスターとして、ユングスタイン亡王国の惨事を繰り返すまいと事態の収束に尽力し、ようやく落ち着きを取り戻したのは四年前のことである。
なお、アルベルトの他三名の元近衛騎士も各国に散って冒険者ギルドの要職に就いている。アルベルトに倣い、世界を駆けるアリスを支えるためだった。
アリスと最後に会ったのはその四年前のことである。
遠い旅に出るからしばらく会えなくなるかもしれない、と告げたアリスに不安を抱き、留まるように説得を試みたが、その決意は固かった。
行き先を尋ねても教えてはくれなかった。
アルベルトは、おそらく西の果ての更に西、別の大陸に行くのだろうか、と思った。
別れ際、私の子供……ゼトラがいつの日か冒険者としてここに来るかもしれない。その時は気をかけてほしい、というアリスの頼みは、別れの寂しさに涙を流すアルベルトにとって、希望の言葉へと変わった。
ユングスタイン亡王国の正統にして唯一の後継者。再興の希望の光。まだ見ぬ少年に想いを馳せてアルベルトはギルドマスターとして多忙な日々を過ごすことになった。
その音信は途絶えて久しいが、齢三十歳を超えてなおアリスの剣技はますます冴えわたり、研ぎ澄まされた魔法の一撃は例え魔王を自称する亜人であろうと負けることはないだろう、と思うには十分だった。そんなアリスのことだから、きっと世界のどこかで元気にしていると信じて疑わないアルベルトだった。
なお余談ではあるが、アリスの真の名は『アリスアトラ・ユングスタイン』である。
『アリス』がファーストネーム、『アトラ』はミドルネームにあたるのだが、在りし頃のユングスタイン王国の文化圏に於いては、ミドルネームは尊称や役職名、あるいは自称する二つ名などを兼ねていた。
ユングスタイン言語圏に於いて『正統なる第一の』という意味が込められた『アトラ』を含めて『アリスアトラ』と一綴りで呼称するのが本来正しい。
過酷な逃避行の果てにアリス・ユーベルクと名を変えてからアリスと称した経緯がある。
またアルベルトの真の名は『ダニエルユーナイト・アルベルト』である。
『ユーナイト』はアリスからユングスタインが誇る忠義の騎士、という意味を込めて与えられたものだった。エイベルク王国に於いてはミドルネームまで含めて一綴りで呼称する文化ではなかったため、或いは亡王国の出身であることが知れるのを恐れて『ダニエル・アルベルト』と称するようになった。
◇ ◇ ◇
「不肖、このダニエルユーナイト、こうして真の名を名乗る機会に恵まれましたこと、ユングスタイン亡王国の正統にして唯一の後継者たるゼトラ様の御前にして、歓喜に打ち震えております」
アルベルトの長い話が終わり、ゼトラもまた母の過去の足跡に思いを馳せ、胸を焦がした。
しかし自分が高貴な身の生まれである、ということにはいまいちピンと来ていない様子である。
二十五年という年月がアルベルトにとってどれほど重い意味があるのか。
母アリスアトラと別れて四年、いずれ会えるかもしれないと想いを秘め続けることが、どれほどのものか。
ゼトラにははかりしれないものではあるが、アルベルトの表情を見れば相当なものなのだ、ということだけは理解できた。
「失礼ながらゼトラ様に於かれましては真の名はなんと……」
アルベルトの問いに、ゼトラは大きく首をかしげ、うーんと唸る。
「母さんはボクのことをゼトラとしか呼ばなかったし、ゼトラ・ユーベルクだとしか聞かされてなかったし……たぶん、そういうのは無いと思う……」
「なるほど……お母君なりに何か思うことがあって真の名を伏せておいでなのかもしれませんね」
アルベルトはふんふん、と一人合点がいったように大きく頷き、微笑む。
「では再会した暁には、真の名を教えていただくのも良いかもしれませぬ。ユングスタイン王国再興がいつの日にか叶った時のためにも」
「……そだね」
照れくさそうに笑うゼトラの笑顔を見て、嗚呼その笑い方は母君そっくりだ、と感極まってまた涙で声をつまらせるアルベルトだった。
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次回更新は2020年08月28日12時頃の予定です。
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