捨石の城〜家康と三河武士
伏見城は、文禄元年(一五九二)京都木幡山南西の指月の森に、関白職を甥の秀次に譲った豊臣秀吉の隠居城として建造された城である。慶長元年(一五九六)に慶長大地震によって全壊。翌年ただちに再建され、それ以前を指月城、それ以後を別名木幡山城ともいう。
再築された伏見城は以前にも増して金殿玉楼を呈し、また南東に川を帯び、北東に渓谷を控えた堅固な要塞でもあった。本丸の北西に金箔瓦葺きの五層大天守をあげて、西に二の丸(西の丸)、東に名護屋丸、南に三の丸、増田曲輪、山里丸、北に松の丸、出丸、これを囲む御花畑曲輪、長束大蔵曲輪、弾正曲輪など十二もの曲輪があり、さらに宇治川を北に迂回させ外堀とし、西側の湿地帯を埋め立ててつくられたのが城下町である。まさしく当時の桃山文化の象徴といっていいだろう。太閤秀吉が逝去したのもまた伏見城である。秀吉の死は、直ちに新たなる戦乱の幕開けとなった。
秀吉死後、にわかに頭角をもたげたのが徳川家康である。伏見城及び大阪城を、たちまち占拠し、亡き秀吉が禁じていた諸大名との縁組を次から次へと進めた。これに対し、にわかに翻意を見せたのが会津の上杉景勝だった。家康は慶長五年六月(一六〇〇)ついに上杉討伐を決意する。 六月十六日、大坂城をあとにした家康は同夜には伏見に到着。伏見城の留守居役は、三河以来の家康の忠臣鳥居元忠である。家康には一つ気がかりなことがあった。
「そなたはわしより三つ年上であったな。されば今年で六十二か」
家康は、その巨眼を見開き、しんみりと言った。この日家康には胸中深く思うところがあった。
「はっ左様でござる。このごろ跛の足の節々が以前にも増して痛みますれば、若い頃のように殿にお仕えできぬのが残念にござる」
老人は三方ヶ原の合戦の際に受けた傷がもとで片足が不自由で、昨今は杖なしでは歩行も困難だった。
「それはそうと殿、こたびこそはまさに覚悟の出陣かと、殿が会津に向かわば必ずや治部少輔(石田三成のこと)めが挙兵し背後を突くは必定。殿にはいかなる必勝の策があるか、お伺いしてもよろしゅうござるか」
元忠がやや辞を低くしてたずねると、家康はしばし沈黙した。重い沈黙だった。元忠は十三の年より家康に仕えて今日まで至った。主君の腹の底はおよそ察しがついていた。
「治部少輔が挙兵のおりは、必ずや、この伏見の城に押しよせてこよう。じゃがわしは、この城の防御のため多くの兵をさく余裕はない」
そういい終わると家康は静かに目を閉じ、再び沈黙した。
「ご案じめされるな殿、この城の守りは、この老人一人で十分でござる。たとえ命にかえても治部少輔めに三河武士のなんたるかを知らしめてやりましょう」
老人はさらに辞を低くして答えた。
「治部が攻めてくれば、この城は孤立無援となる。命を捨てねばならぬかもしれぬぞ」
そこまでいい終わると、不意に家康の目に光るものがあった。
「殿…もったいのうござる。この城は鳥居彦右衛門元忠が命にかえても守ってごらんにいれる。ただ最後に一つだけお願いしてもよろしゅうござるか」
「なんなりと申せ」
「殿…ゆくゆくは天下を…」
家康はかすかだが笑みをうかべた。不意に元忠には、家康が遠い存在に思えた。
果たして三成は動いた。中国地方の大大名毛利輝元を説きふせ、事実上の総大将の地位にすえると、およそ四万の兵で伏見城を取り囲んだ。主な将は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘、毛利秀元などである。対する伏見城の守備兵は千八百にすぎない。
三成方の降伏勧告をにべもなく拒絶した元忠に対し、七月二十五日ついに三成は総攻撃の命を下す。晩年の秀吉の栄華の象徴でもある伏見城は、たちまちのうちに火矢、大筒、鉄砲の的となり、両軍将兵の血で阿鼻叫喚の地獄絵図と変貌した。元忠は万が一の時は、伏見城に貯蔵してある金銀塊を銃弾に鋳直してよいと家康に伝えられており、弾丸は潤沢にあった。また元忠配下の甲賀衆には射撃の名人が多く、城壁をよじ登ってくる西軍を的確な狙撃で苦しめた。なにより死を覚悟した元忠配下の守備兵達の必死の抵抗により、城は数日を経ても落ちる気配をみせなかった。
「諸将、いったいなにをもたついておられる。高々二千にも満たない敵を蹴散らせぬでは、天下のあざけりをうけるは必定」
七月二十九日、たまりかねた三成は自ら陣頭に姿を現わし、軍議の席上諸将を前に不満を露わにした。
「金吾中納言殿(小早川秀秋)、そなたはなにを躊躇されておいでか。城兵の侮りをうけまするぞ」
やや気の弱いところのある秀秋は、三成の言葉の激しさに一言も言葉をかえせず、ただ頭をたれるのみであった。
「小西行長殿、聞けば清正公とそなたは朝鮮以来の不和と聞き及ぶ申す。ここでいたずらに時を費やせば、今肥後の領国にある清正は、隣国である汝の領土を侵すやもしれませぬぞ」
小西行長もまた、言葉を返せず焦燥感からか唇をかむのみであった。
「あいや待たれい、この伏見城は今は亡き太閤殿下が精魂かたむけて築城させた城でごわす。また城兵達も一丸となって城を死守する覚悟とお見うけ申す。なかなかそうおいそれとはいかんでごわんと」
意見したのは薩摩の島津義弘であった。
「義弘殿、御身も朝鮮のおりはかほどの活躍を見せながら、何故に敵を滅ぼせぬ」
三成は青白い顔を、やや興奮気味に赤らめた。
「三成公、それがしに一つ策がござりまする」
進言したのは、豊臣政権下で五奉行の一人をつとめた長束正家だった。
「それがしの配下に、甲賀の者がおりまする。その者に命じて、敵方の甲賀の者が寝返えるようしむけるのです。矢文を放ち内応を約束させましょう。もし応じぬ時は…家族をことごとく磔に致すと」
三十日子の刻(午前零時)、城内は嵐の前の静けさのように粛としてた。静寂をやぶったのは、一陣の火の手だった。
「松の丸から火の手があがったぞー!」
「何事だ失火か、敵の火矢か」
城兵達はただちに消火にむかおうとした。その時、城門が五十数間にわたって破壊され、敵兵が雪崩のごとく城内に侵入を始めた。ことここに至って、ようやく城兵達は内部に裏切り者がいることを敏感に感じ取ったが、時すでに遅し。さらに火は追っ手門の大鉄門をも焦がし、たちまちのうちに小早川、鍋島、相良等の将兵達が、我を先にと城内へと迫る。夜が白々と明ける頃には、名護屋丸、西の丸、太鼓丸も敵の手に落ち、城の運命はほぼ決した。
「見よ天守閣が燃えているぞ、いかに戦とはいえ、太閤殿下ゆかりの城砦を自らの手で焼き払うことになるとは、なんという皮肉」
三成は伏見城を煌々と焦がす炎を目にしながら、自らの勝利を確信し、一時だけ感傷にひたった。すでに元忠配下の城兵達の多くは討ち死に、焼死、もしくは自刃、千八百の兵は二百にまで減っていた。
「ふん、我ながらよく戦ったのう、三河武士がいかに手強いか、三成も西国の諸大名も、とくと思い知ったことであろう」
元忠は敵の返り血を浴びた顔に、かすかに笑みさえ浮かべた。
「恐れながら、そろそろ敵が、この本丸にも迫ったまいりましょう」
「わしに自害せよと申すか、いやまだじゃ、まだ死ねぬ」
配下の石野小次郎ほうを向くと、元忠は意外なことをいった。
「さりながら、もしものことがあり敵の足軽、雑兵に討ち取られたとあっては恥辱かと」
「構わぬ、此度わしは名誉のためではなく、一時でも多く時をかせぐための戦と心得ておる。例え小物に討ち取られたとて、わしはいっこうに構わぬ。鳥居彦右衛門元忠、これが殿への最後の忠義ぞ。よいか敵兵と出会ったら必ず殺せ。相手が大将なら刺し違えてでも殺せ。味方の戦死をかえりみるな」
ほどなく、光成方の総攻撃が開始された。元忠が率いる二百名は突撃し、敵を三度にわたって撃退する。五度の突撃をしたが、これによって守備兵のほとんどが戦死。元忠もまた身に五創を負う身となった。
「そこに見えるは敵の御大将とおみうけする。拙者、野村肥後守の家臣雑賀孫一郎重朝と申す。御首ちょうだい致すべく参上つかまつった」
意識が朦朧とする中、薄目を開くと、いつのまにか敵の将が目の前に立っていた。
「そうか、今はもうこれまで。孫一郎とやら早く首を取って手柄といたせ」
孫一郎は素早く元忠の背後に回り、刀を高々と構えた。だが死を前にしても眉一つ動かそうとしない元忠を前に、孫一郎は刀を構えたまま、なかなか振り下ろすことができなかった。
「どうした、わしの首がほしくないのか。早くいたさねば、他のものに先をこされることになるぞ」
「いや、御大将の戦の采配実に見事。そしてかくも潔い武士に、それがし一度も出会ったことがありませぬ。武人の鑑にござれば、それがしごとき者の手にかかったとあらば誠にもったいない。腹を召されるがよろしい。雑賀孫一郎重朝、謹んで介錯いたす」
「己、何奴」
元忠の配下の者が孫一郎に気付き、目の色を変えたが、元忠がそれを制した。
「この老人に腹を斬れと申されるか、それもよかろう。孫一郎とやら、鳥居彦衛門元忠の最期しかと見とどけよ」
そういうや否や元忠は、腹に切っ先を突き立て、十文字に斬ろうとしたが、すでにその余力は残されていなかった。
「介錯、御免」
老将の首は床に転げ落ちた。鳥居彦衛門元忠、享年六十二歳。
ほどなく伏見城は全壊し、守備兵もまた、一人の生存者すらなく城とともに滅んだ。元忠初め伏見城とともに散った千八百人の兵士の遺骸は、その後数ヶ月に渡って放置され続けた。この少々度をこして律儀な三河者達の血脂が染みついた床板は、現在養源院等の京都周辺の寺院の天井板として使用されている。手形や足の形なども当時のまま残されており、四百年前、主君に天下を取らせるため玉砕した侍達の、壮絶さを今に伝えているのである。
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