第7話 薔薇のアーチ
茉莉香の留学の日が迫ってきました。
今年の梅雨は、例年にも増して雨が多かった。
陽の光を見る日は稀で、常に暗い雨雲が垂れ込めている。
少しでも気を晴らそうとするかのように、色とりどりの傘を差した人々が街を歩く。
白桃、巨峰、オレンジなどの果実のフレーバーティーをホットで楽しめる季節なのだが、梅雨はカフェから客足を遠のかせる。
その代わりに、本社では通販の売上が伸びた。
外出を嫌う人々が、家でles quatre saisonsの味を楽しもうとするのだろう。
茉莉香の留学が決まった後、夏樹と茉莉香は毎日のように会った。
平日夏樹は、客として店を訪れ、茉莉香の仕事が終わるのを待つ。
客の中には、夏樹に向かって会釈をしてくる者もいた。
自分たちの関係を知っているのだろうか? 確認する間もなく、反射的に頭を下げる。
(公認の仲ってことか……)
悪い気はしないが、気恥ずかしい。
由里と出くわすと、彼女は面白くなさそうな視線を夏樹に向けた後、そっぽを向いて立ち去って行った。
修士留学のことを茉莉香から聞いているのだろう。
茉莉香のことを案じる由里ならば当然の態度だ。
自分がひどい男になったような気がする。
(まぁ……しょうがないか……)
諦めるしかない。それに、茉莉香を案じ支えてくれる貴重な存在だ。感謝しかない。
バイトのあとは、二人で駅前の古い定食屋に行く。女主人が切り盛りする小さな店だ。
値段の割にボリュームがあり、栄養のバランスが取れていることがありがたい。カフェを訪れた後はここに来て食事をしていた。
「よかった。安心だわ! こんなお店を選ぶなんて、健康管理は大丈夫ね」
アジフライに箸を入れながら茉莉香が言った。他にたまご焼きがあり、ほうれん草のお浸し、切り干し大根が添えられ、みそ汁もついている。
「デートにはむかないけれどね」
夏樹がみそ汁に口をつけながら言った。
「そんなことはないわ。でも、私、駅前にこんなお店があるなんて知らなかった」
茉莉香が笑う。
天気のよい日曜日には、公園で過ごす。茉莉香が弁当を作り、それを二人で食べた。
だが、季節は梅雨のさなかだった。
(天気の悪い日は、普通はお互いの部屋で過ごすものだろうか?)
だが、それは躊躇われた。
「プラネタリウムへ行こうか」
電車を乗り継ぎ、ショッピングモール内にあるプラネタリウムへ行った。
外は雨天だが、ここでは満点の星空が広がっている。
二人は晴れた夏の夜空を眺めた。
茉莉香と過ごす時間は楽しかった。
茉莉香は内気な性格だが、打ち解けた相手には表情豊かに接する。
声色や笑顔、眼差し……。すべてが心地よい。
この気持ちを誰かに話せば、
「それが恋というものだよ」
と、知った風な口ぶりで人は言うかもしれない。
確かにその通りだろう。
だが、それだけではない。
茉莉香には、人を惹きつける魅力があるのだ。
それは、品よく、慎ましやかで、彼女と相通じる者だけが、感じ取れる類のものだろう。
暗闇に灯る仄かな光のように、頬を撫でる五月の風のように楚々としたもの。
視線を交わしたとき、あるいはその姿を見た瞬間に、その喜びは始まり、ひとりの部屋に戻った後も、心に温かく残るのだ。
(この手を放したくない)
夏樹は強く思う。
「夏樹さん?」
茉莉香が不思議そうにこちらを見ている。
いつの間にか、考えに耽ってしまったようだ。
「あ……ごめん。そろそろ食事の時間だね」
夏樹は平静さを取り戻すと、茉莉香をフードコートへ誘った。
梅雨が明け、夏が突然やって来た。
紫陽花の季節が終わり、マンションの緑地帯の夾竹桃がいっせいに花開く。
茉莉香の出国の日が近づこうとしていた。
留学期間は、八月の初旬から九月の中旬まで。一か月と少しの間だ。
渡航の数日前、夏樹は茉莉香と駅前の喫茶店で待ち合わせた。
「預かって欲しいものがあるの」
茉莉香はそう言っていた。
夏樹が店に着くと、茉莉香がすでに待っていた。
テーブルには鉢植えが置いてある。
「やぁ! 預かるのってそれ?」
茉莉香に声をかけながら、テーブルにつくと、ウエイトレスが注文を取りに来た。
「あ、俺、コーヒーで」
注文をすませると、コップの水を一気に飲み干す。
外はうだるような暑さだ。
それは、夏樹が茉莉香の誕生日に贈った木香薔薇の鉢植えだった。花は終わり、背丈が少し伸びている。
「ええ。他の鉢植えは、実家に預かってもらったけど、これは夏樹さんに預かって欲しくて……」
茉莉香が、そっと鉢植えを夏樹の方へ滑らせた。
二人は互いの部屋に入ったことがない。
夏樹は、茉莉香の部屋に飾られた植物のことを考える。
茉莉香が丹念に世話をする姿が思い浮かんだ。
「うん。いいよ。大事にするから。いや、あっという間だったね。出発」
「ええ」
二人は言葉もなく、注文したコーヒーを飲みほした。
「送るよ」
店を出て歩き始める。
「じゃあ」
マンションにたどり着き、別れを告げようとしたときだ。
茉莉香がそっと、夏樹の首に手をまわして身を寄せてきた。
夏樹が持った鉢植えを挟んで、距離が縮まり、互いの体温が伝わる。
「茉莉香ちゃん?」
夏樹の鼓動が高まる。
「だめだよ。棘が刺さるよ。危ない」
「大丈夫よ。この薔薇は棘がないの」
茉莉香がささやいた。
「でも、潰れちゃう。かわいそうじゃないか」
「まぁ、いけない!」
茉莉香が慌てて離れた。
夏樹は鉢植えを目の高さに揚げると、大げさに点検をするふりをする。
「大丈夫! 茉莉香饅頭には潰されてない!」
「まぁ! ひどいわ!」
茉莉香が、ぷっとふくれた。
「はは。やっぱり饅頭だ」
二人は顔を見合わせて笑う。
「気を付けて」
「ええ。夏樹さんも」
茉莉香は歩き出し、振り返らなかった。
夾竹桃の花に遮られ、エントランスへ入る姿を見届けることができなかった。
これから、しばらく茉莉香の笑顔を見ることができない。
夏樹は呼び止めたい衝動を抑えた。
数日後、茉莉香はパリに旅立った。
夏樹は、学校へ行き、樋渡の事務所で働いた。
卒制の準備もしなくてはならない。
毎日を忙しく過ごす彼は、厄介な問題を抱えている。
茉莉香から預かった木香薔薇の世話だ。
「茉莉香ちゃんが帰ってきて枯れていたら、シャレにならないぜ」
必死だ。
ネットで育て方を調べる。
「比較的簡単なんだな。水や肥料はやり過ぎちゃいけないのか。植え替えが十月か……」
植え替えの時期が来たら、実家へ送ると茉莉香は言っていた。
木香薔薇は日光を好むが、幸い夏樹の部屋は日当たりだけは良い。
「これは、フェンスに沿わせるとどんどん伸びるんだよな。二階の窓まで伸びたやつを見たことがある。アーチにすると庭が豪華になって最高だよな」
木香薔薇。
パリで再会した日に、茉莉香が来ていた白いワンピースの織り柄だった。
白い裾を翻して、階段を下りる茉莉香の姿がよみがえり、抱きしめたときの身体の温かさを思い出す。
ふと、夏樹の脳裏にある情景がよぎった。
茉莉香と二人で、木香薔薇のアーチをくぐる姿だ。
白い薔薇がアーチを覆い、咲き乱れている。
二人は手をつないでいる。
茉莉香は夏樹を見上げて微笑み、夏樹がそれを笑顔で返す。
アーチは青々とした芝生の上に連なる。
芝生が初夏の日差しに照り映えている。
アーチをくぐり抜け、アプローチを歩いた先には……家があるのだ。
切妻屋根の小さな家。
広いポーチに大きな出窓、二階にはベランダ。
二人はそこへ向かって歩いている。
あまりにも鮮明な映像に、夏樹は眩暈を覚え、ぺたんとベッドの端に座り込んだ。
「な……なんだ……? ……俺の……家?」
それは一瞬で消え去った。
夏樹は、今まで誰かのために家を建てるだけだったが、初めて自分が住む家をイメージしたのだ。
しかも、誰かと一緒に住む家なのだ。
だが、一瞬の幻影はあまりにもリアルで、茉莉香がすぐそばにいるよう気さえする。
「自分の住む家のことを考えるなんて……」
思いもよらないことだった。
茉莉香のことは好きだ。一緒にいたい。
だが、今までのそれは、実感を伴わないものだったのだ。
どこかに誰かと住んで生活を共にする。それが、今、現実味を持って迫っているのだ。
「自分にこんな感情があったとはな……」
自分の知らない自分に気づかされる。
「いけない! 作業を続けなきゃ。あっちの方が日当たりいいな」
夏樹は鉢植えを窓の近くへ移した。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。