第35話 パリへ!
いよいよです!
年が明け、茉莉香は留学の準備に追われた。
les quatre saisonsでは、由里がパリに行っている二週間は、ケーキと『今日のサンドイッチ』の提供を一時休むことになった。
「お客様には悪いけど……」
由里が申し訳なさそうに言う。
亘はスコーンや普通のサンドイッチは作れるが、この二つは無理だ。
「大丈夫ですよ。帰国したら、美味しいケーキを焼いてくれれば……」
亘が言う。
出発当日は、金曜日深夜に成田を発ち、直行便で現地時間五時にパリに着く。空港で少し時間をつぶしてから、宿泊先に到着する予定だ。
「いってきます」
茉莉香の両親と由里の子どもたち、亘に見送られて空港に向かう。
由里の下の子どもは、寂しいのを堪えているようだ。
飛行機の窓から、東京の夜景を見ながら茉莉香はパリでのことを考える。
由里は茉莉香を自分の隣に座らせた。
「あなたが隣にいてもつまらないから」
由里が前川氏言った。
茉莉香は、彼が話す姿をほとんど見たことがない。いつもにこにこと黙っている。茉莉香に気を配っての座席の配置だろうが、それだけではないようで、離陸してからしばらくの間、由里は茉莉香との会話を楽しんでいた。
「茉莉香ちゃんは二年ぶりよね」
「はい。初めて行ったのもこの季節でした」
「由里さんは?」
「私は春は初めてだわ。何回か行ったことがあるけど、夏か秋が多くて……だから楽しみ」
そうは言っても、由里は夫の仕事のサポートできているのだから忙しいはずだ。
そんな二人に同行させてもらっているのだ。感謝してもしきれない。
時間を見はからって機内食が出された。
「美味しいですね。クロワッサンも!」
三人は食事に舌鼓を打つ。
それからは本を読んだり、音楽を聴いて過ごしていたが、いつの間にかうとうととし寝てしまった。
「茉莉香ちゃん。もうすぐよ」
由里に起こされる。
眠い目をこすりながら、タラップを降りれば、外はまだ薄暗く風が冷たい。
「わっ! 寒い!」
吐く息は白く、身震いをしながらコートの襟を立てる。
「パリに着いたんだわ」
ようやく訪れることができたのだ。
タクシーに乗って、街に出る。
由里の知人の家は、ブローニュの森の近くの高級住宅街にある。
石造りの十九世紀の邸宅だ。
壁には、よく磨かれた窓が連なっていた。
「まるでホテルみたい」
茉莉香が建物を見上げながら言う。
門をくぐり、手入れのいきとどいた芝生に樹木が木立のように並んでいた。
石造りのアプローチを歩いて玄関へ向かう。
迎えるのは、前川氏の仕事仲間であり、プライベートの友人でもある夫妻だ。
前川夫妻に一部屋。茉莉香に一部屋が与えられる。
部屋に通された茉莉香は驚きの声をあげた。
「まぁ!」
白い壁に白いカーテン。白い大理石の床には、白いカーペットが敷かれている。白いソファーに、白塗りの木製の机。白いレースの天蓋のついたベッド。
すべてが白で覆われ目が眩みそうだ。
寝室だけではなく、居間もある。
ふと目を留めた鏡台は、金のロココ調。
ここはパリで異国だが、また次元の違う世界に迷い込んだようだ。
レースのカーテン越しに、ブローニュの森が見渡せる。
茉莉香は部屋をぐるりと見回す。
「こんなに広くて、私一人では申し訳ないくらい」
由里が茉莉香の様子を見に来た。
「茉莉香ちゃん。お部屋は気に入った?」
「はい!」
「私たちはこれからパリ見物にでかけるけど、茉莉香ちゃんは、午後、夏樹さんに会うのね」
「はい」
「家の人にも言ってあるから。それからこれ……」
そう言って、封筒を渡される。
「……はい……」
舞い上がっていた茉莉香は、現実に戻された。
父からの書面だ。これを夏樹に見せなくてはならない。
夏樹がこれを見たらどう思うだろうか?
「約束だから……ね」
「はい」
ここまで由里が手を尽くしたのだ。信頼を裏切るわけにはいかない。
「行ってらっしゃい!」
窓から声をかけると、由里は茉莉香に手を振ってこたえた。
由里が前川氏に話しかけ、前川氏がそれに笑顔で頷いている。
二人は、常に仕事や家事に追われ多忙だ。こんな風に二人きりで外出するのは久しぶりなのかもしれない。
「由里さん嬉しそう」
そんな二人を微笑ましい思いで見る。
「夏樹さんが来るまでまだ少し時間があるわ。飛行機の中でも寝たけど、もう少し寝ようかしら」
機内では思うように眠れず、睡眠不足で身体が重い。
今のうちに休んでおこう。
部屋着に着替えると、アラームをセットし、ベッドに横になった。
「わっ! ふかふか!」
白いリネンの海に沈みこむ。
さらさらと纏いつく生地の感触を楽しむうちに、睡魔がそっと忍び寄ってくる。
―― もうすぐ夏樹さんに会える ――
深い眠りが茉莉香を包んでいった。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。