第31話 君の名前
「それでね。パパったらひどいの」
電話の向こうで茉莉香が憤慨している。
「春休みの留学は、絶対に認めないって……普段は優しい人なのに、こうとなったら絶対に意見を変えないの」
「そりゃ、大変だ。俺も、そういう人間を知っているからわかるよ」
「まぁ、夏樹さんの知り合いで?」
「ああ」
茉莉香の怒った顔を思い出しながら、夏樹が苦笑する。
「でもね、私も諦めない。話し合って、絶対説得するから」
「茉莉香ちゃんと茉莉香ちゃんのお父さんの勝負か……なんか、すごそうだな」
夏樹が実感を込めて言う。
「そう?」
茉莉香は腑に落ちないようだ。
「ああ、それから、Jeune Ventは送らなくてもいいよ。パリの日本書店でも買えるから。パリにいることを忘れるほど、日本語の本が揃っている。漫画もあるんだ」
「そうなの。便利ね。わかったわ」
「あと、読んだけど、すごくよかった。茉莉香ちゃんらしかったよ」
「私らしい? どんなところが?」
「どんなところったって……」
夏樹が言葉に詰まる。
Chloe フランス語で“若い芽”と言う意味だ。
まさに、そんな文章だったと思う。
「ねぇ。私らしいってなに?」
茉莉香はあきらめない。
「そんなこと言われたって……」
電話の向こうで、くすくすと笑う声が聞こえる。
「いいわ。私らしいって素敵な言葉よね」
茉莉香は嬉しそうだ。
「あのね。春休みにパリに行ったら、夏樹さんに報告したいことがあるの」
「何?」
「だめ。直接会って言いたいの」
「まだ先だよ、電話でいいじゃん」
「ダメ!」
すぐに茉莉香に会いたい……夏樹は思った。
「じゃあ体に気を付けて」
茉莉香が言う。
「茉莉香ちゃんも」
夏樹がこたえた。
夏樹は放課後、日本の書店に立ち寄り、Jeune Ventを手に取った。
エッセイのページを開くと、“訳 浅見茉莉香”と記されている。
茉莉香からJeune Venを送られたとき、繰り返し読んだ。
くせのない素直な文章。弾むようなリズム感があり、若々しさに満ちている。
茉莉香はクロエの特徴を捉えながら、新しい一面を引き出していた。
それは、若い女流作家、クロエ・ミシェーレのもうひとつの顔だった。
茉莉香は、しっかりしているが、器用な娘ではない。それが、自分よりも先に世に名前が出たことが意外な気がする。
「先を越されちゃったな」
茉莉香は、日本で自分の道を見つける努力を続けていたのだ。
「さて、俺も頑張らなきゃ!」
力いっぱいペダルを漕ぐ。
今日はパスカルに同行してブティックの現場へ行くのだ。
ビルの建築は、基礎作り、一階及び二階の壁、スラブ(屋根)が出来上がり、これから屋根防水を施し、サッシを設けようとしているところだった。
夏樹は一度家に戻りワイシャツに着替えた。ネクタイを締め、作業着をパスカルから借り、ヘルメットをかぶって工事現場の中を歩く。
パスカルは、現場で設計通りに建築が行われているか、指示している資材が使われているかを監督に行く。確認し、細かく指示を出す。
この作業を夏樹が代行することはない。
中には気の荒い職人もいるが、パスカルは忍耐強く接する。職人たちも、そんなパスカルに敬意を表している。
「俺も、いつか……」
強く思う。
夏樹のここでの役割は、点検結果と、職人たちとのやり取りを記録に残すことだ。
パスカルの仕事ぶりを学ぶことも怠りはしない。
現場管理の勘所は何なのか、どこを重点的に点検すべきなのかを、頭に叩き込むのだ。
「君は現場が好きだね」
帰り道にパスカルが言った。
パスカルは、年齢が近いせいか、夏樹に対して友人のように接してくる。
親しみ深く、それでいて、夏樹を尊重していることが言葉や態度でわかる。
「はい」
夏樹は自分の姿勢を崩さず、礼儀正しく答えた。
「そういうところは、なんかボスに似ているね」
「そんな……」
夏樹は、猛禽類のようなガスパールの目を思い出した。
優しく知的なパスカルの眼差しとは、対照的に思われる。
「彼は父親が大工だったんだ。子どもの頃から、親について建築現場を出入りしていたそうだよ」
自分とガスパールを比べるなんて……。
ひどく不遜な気がする。
まだ、自分の名前では何ひとつできない身の上なのだ。
「それに……」
パスカルが笑いをこらえながら言う。
「その目。僕を見る時のその目! 取って食われそうだよ。獲物を狙う野生の動物みたいだ。まぁ、そこまで君に見込まれたってのは、光栄だけれどね」
パスカルには夏樹の気持ちがお見通しだった。
自分は、そこまで明らさまに彼を観察していたのだろうか。
「すみません」
ひとまず詫びるが、その程度の言葉しか見つからない。
「明日は、スケジュール調整をサポートしてもらうよ」
パスカルは相変わらず気さくだ。
「はい!」
二人が事務所に戻ると、時計は六時を指していた。
「君は、パリの建築物をいろいろと見ているんだって?」
帰り支度をする夏樹に、パスカルが声をかける。
「はい」
「いい勉強になるだろうよ。今週末の予定もあるの?」
「イル・ド・フランスに行こうかと……」
イル・ド・フランスは、パリを中心とした地域圏のひとつである。
ヴェルサイユ宮殿のあるヴェルサイユ・リヴ・ドロワ駅までは、オペラ座近くのサン・ラザール駅から電車で四十分ほどだ。
「いいねぇ。ヴェルサイユにフォンテーヌブロー、シャルトル……コルビュジエのサヴォワ邸もある……ああ、いっぺんには無理か。大学がパリにあると、いろいろと便利だね。うらやましいよ」
パスカルが笑う。
その笑顔は、どこか亘に似ているような気がした。
亘はさりげなく自分を観察し、慎重に判断を下していたのだろう。
自分は、パスカルの目に適ったのだろうか? 評価されていたのだろうか?
「よい週末を」
「ありがとうございます」
パスカルに見送られ、夏樹は夕暮れの街に自転車を走らせた。
イラストは、羽藤さんよりいただいた、「夏樹お仕事バージョン」です。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。