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第29話  風がふいた

風がふきました。

「義孝君がいないと寂しいですね」


 茉莉香がぽつりと言う。


「えっ? ……そう?」


 亘が、返事を曖昧に濁している。同意は得られないようだ。


 義孝は、無事学校に戻ることができた。彼の両親は、報告にも礼にも来ないが、義孝が現れないところを見ると、順調に過ごしているのだろう。

 

 年に合わないませた態度と言葉遣いに戸惑いながらも、茉莉香は義孝との会話を楽しんでいた。

 義孝が学校からも、由里や亘からも、面倒な存在として扱われることを不憫に感じたことが、それに大きく加担していたかもしれない。

 

 だが、義孝と亘が定休日に会っていることを、茉莉香は知っている。

 それを知ったのは、つい最近の事だった。


 義孝は、自分には理解できない亘たちの世界に踏み込もうとしているのだろうか? それが義孝にとって良いことであることを、茉莉香は願う。





 ある日、茉莉香が学校から帰宅すると、Jeune(ジューヌ) Vent(ヴァン)の編集長 日高(ひだか) 真澄(ますみ)から電話があった。茉莉香は夏休みに編集室でアルバイトをしている。


「日高さん! お久しぶりです。先日は大変お世話になりました」


 日高の声が懐かしい。


「浅見さん。おひさしぶり。実は、お願いしたいことがあってお電話したの。今、よろしいかしら?」


「はい!」


 茉莉香は即座に返事をした。

 自分にできることなら、力になりたいと思う。

 だが、なんだろう?

 

 二人は編集室の近くにある喫茶店で、待ち合わせをすることになった。


「浅見さんおひさしぶり」


「おひさしぶりです」


 日高は、コットンのブラウスにカーディガンを羽織り、紺のツイルスカートを履いていた。茉莉香はブランドには詳しくはないが、おそらくプラダだろう。


「紅茶の専門店でバイトしてらっしゃるそうだけど、コーヒーでいいかしら?」


「はい」


 ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。


「実はね。浅見さんにお願いしたいことがあるの」


「はい。なんでしょう」


 茉莉香が笑顔でこたえる。


「エッセイの翻訳してみない?」


「えっ!?」


 日高の“お願い”は茉莉香の思いもよらないことだった。


「実はね。クロエ・ミシェーレという、フランス人の作家がいてね……」


「クロエ・ミシェーレ!」

 

 茉莉香が大声でその名を叫ぶ。


「あら、ご存知?」

 

 日高が茉莉香の声に驚いている。


「あ……すみません」

 

 茉莉香は、話を中断させたことを詫びた。


「いいのよ。知っていれば話が早いわ。小説は読んだことある?」


「はい」


 夏樹に送ってもらった本の作者。茉莉香と同じ二十歳の女流作家だ。

 

 突如現れた新星。

 高名な文芸評論家の父と、文芸雑誌の編集長を母に持ち、文学界のサラブレットとも呼ばれている。

 あのとき、茉莉香は夏樹の目の確かさに驚かされたのだ。


 茉莉香は、この小説に深い感銘を受けたことを日高に告げる。


「さすがは浅見さん。クロエはまだ日本ではあまり知られていないのに目を付けたのね。貴女を推した甲斐があるというものだわ」


 日高が満足そうに頷く。

 

「実はね、小説の版権はまだとっていないのだけど、Jeune Ventのために彼女が連載用のエッセイを書きおろしてくれることになってね。それで同い年の女子大生に翻訳させようって企画が持ち上がったの……」


 小説家のエッセイの翻訳。茉莉香が今まで考えてもみなかった話だ。

 確かに、ビジネス文書の翻訳をしたことはあるが、エッセイはどうだろうか……。

 しかも、今、フランスで評判の流行作家の作品だ。


「私ね、浅見さんなら大丈夫じゃないかと思っているの」


「でも……」


 迷わずにはいられない。

 うまくいくかもしれない。

 だが、もし失敗したら……。


 様々な思いが、頭の中を駆け巡る。

 眩暈(めまい)がして気が遠くなりそうだ。


「やってみない? 作者と同じ二十歳の女子大生というのがウリのひとつなの。ほら、読者層にマッチするでしょ? 短いエッセイだし、チャレンジする価値はあると思うわよ」


 日高が茉莉香を励ますように言う。


 だが、


(時間を貰って、よく考え直した方がいいかしら?)


 迷わずにはいられない。


 そのとき、茉莉香の頭にひとつの考えが浮かんだ。


(夏樹さんならどうするかしら?)


 夏樹の力強い瞳が心に浮かぶ。


 

 ……きっと、こう言うだろう。


「ぜひ、やらせてください!」


 思いと言葉がひとつになった瞬間だった。


「よかった! 引き受けてくれて。原稿を渡すから、編集室に寄ってくれないかしら?」


「あ、はい……」


 事の重大さが、次第に身に沁みてくる。

 全身が震えるようだ。

 気持ちを変えようと、震える手をコーヒーに伸ばす。

 口元に運んだ、カップとソーサーがカチャカチャと音を立てている。

 





「それでは、よろしくね。浅見さん」


「はい。失礼します」


 茉莉香は編集室を出ると、受け取った原稿を抱きしめるように、マンションに持ち帰った。

 家までの道のりは、夢の中を歩くような気持だった。

 

 机に広げて読み始める。


 二十歳の女流作家、クロエ・ミシェーレの日常を描いた短いエッセイだ。

 すでに、三回分ほど書かれている。

 

 クロエは、彼女の小説の主人公と同じ、エコール・デ・ボザールで美術を学ぶ女学生だ。

 

 エッセイには、学校のこと、家族のこと、友人のこと、恋、そして将来……。

 そこには、小説からは想像がつかない、等身大のクロエの姿が描かれている。

 偉大な若い作家の、平凡な日常がそこにあった。


 別世界の住人のように思っていた人物が、自分と同じように喜び悩む姿に、共感し、勇気づけられる。


 茉莉香の頬が、いつの間にか涙に濡れていた。


「やだ……私ったら、こんな……」

 

 なぜ泣いているかもわからなかった。

 拭っても、拭っても、涙は止まらない。

 

 原稿を何度も読み返す。


「できるかもしれない……ううん。絶対にやりたい。これを翻訳して、彼女を知らないたくさんの人に伝えたい!」


 きっとやり遂げて見せる。

 茉莉香は硬く決意をした。

 


 翻訳に取り掛かる前に、まずは読み込まなくてはならない。


 茉莉香の長い夜が始まろうとしていた。




ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 信じれば道は開ける その瞬間を体感したような気分になりました。
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