第28話 新しい扉
茉莉香の過去について語られます。
茉莉香と沙也加は、学食で小日向 京を待っている。
茉莉香が京と知り合いであることを知った沙也加にせがまれて、一緒に食事をすることになったからだ。
京は二人を見つけると、手をあげて近づいてきた。
「お待たせしたかしら?」
「い、いえ。今来たばかりです」
沙也加が、かちかちに緊張しながら言う。
京は沙也加の高校時代からの憧れの人だ。
「あ……あの、お好きな色はなんでしょうか?」
沙也加が上目づかいで、おずおずと尋ねる。
そんなことを聞いてどうするのだろうか、と茉莉香は思うが、
「オレンジ色かな? 気分が明るくなるでしょ」
京は屈託なく答えた。
(なんていい人なのかしら!)
沙也加が憧れる気持ちがよくわかる。
「あの……就活の方は……」
「あれね。今度、インターンに行くのよね」
「がんばってください!」
ようやく、会話がそれらしくなったときだ、
「白石さん。高橋先生が探していましたよ」
学生の一人が声をかける。
「ええー!」
沙也加は不服だったが、先生からの呼び出しとなれば従うしかない。
名残惜しそうに席をたち、何度も振り返っては頭を下げている。
せっかく憧れの先輩と話す機会を得たのに、それが中断されてしまったのだ。
茉莉香は、沙也加を気の毒に思う。
「気をつけて」
席から沙也加を見送る
茉莉香と京が残された。
「浅見さんは、何か変わったことはない?」
京が尋ねた。
「あの、私、自分がどうして仏文科に入ったかを思い出したんです。フランス文学が好きだったんだなって……。それで、今フランスで流行っている本をいろいろ読んでみようと思って……」
夏樹に本を送るように頼んだ話をすると、
「あら! あなたの彼、使えるわー!」
と、言って感心した。
「はい。忙しいはずなのに……送ってくれる本が、どれも素晴らしくて。つい夜遅くまで読んでしまって……寝不足気味なんです」
茉莉香に言葉に、京が笑顔でうなずく。
しばらく話しているうちに、次第に言葉数が少なくなり、やがて沈黙が訪れた。
(もしかしたら……小日向さん。なにか話したいことがあるのかしら?)
話しづらいことなのだろうか?
茉莉香は、京の言葉を待った。
沈黙が続いた後、
京が徐に言った。
「浅見さん。もし、嫌だったらごめんなさい」
京は何かを躊躇っている。
「あ、いえ……」
「浅見さんは、高等部のとき休学していたことがあるわよね」
「あ、はい」
「いじめが原因よね?」
京が慎重に言葉を選んでいるのがわかる。
「はい」
記憶がよみがえり、茉莉香は息苦しさを覚えた。
「ごめんなさいね。あのとき、高等部のことが大学でも、かなり話題になったの」
京の耳に入ったのも無理はない。知佳の父親が逮捕されたことが、新聞やテレビでも報道されたのだ。
「あの……それで……」
茉莉香が、質問の意図を慮る。
「真相が判明して、いじめはなくなったわよね」
「はい」
「そのあと、クラスメイトたちとはどうしたの?」
「あ……ときどき、バイト先に遊びに来てくれます」
京が、ふぅっと、ため息をついた。
「和解したのね」
茉莉香が無言でうなずく。
「やっぱり、浅見さんはすごいわ」
京が感慨深げに言った。
「えっ?」
「実は、私もいじめられていた頃があったの」
京のような人間がいじめられたなどとは、にわかには信じられない。
「私、中等部から学院に入ったの。初めの頃、すごく意地悪されてね。ほら、目立つでしょ?」
京は帰国子女で、中等部から編入してきたという。
確かに、魅力的ではあるが、京は学院の中では異色の存在だ。
いじめのターゲットになることもあり得る。
「テニス部の先輩に目をかけられるようになって、いじめはおさまったわ。でもね、いじめた相手は、今でも顔を見るのも嫌なの。挨拶ぐらいはするけどね」
茉莉香は、京の知らない一面を見たような気がした。
「で、でも、私も……わだかまりが完全になくなったわけでは……」
和解したといっても形だけなのかもしれない。
「でも、相手の気持ちは大分楽になったはずよ。私なんてね、なまじ一目置かれているから、向こうの方が気まずいみたい。これでも、日曜日には教会に行っているのにね。隣人愛とか、赦しとか……ね。さんざん聞かされているのに……。退学したのは澤本さんよね。彼女は?」
「あ、カソリックです。家族でクリスチャンなんです」
茉莉香は、学内のチャペルでおこなわれたミサで知佳が聖体を受け取る姿を思い出す。
「宗派は違うけど、同じ信仰を持つものとしては考えものね」
京の言葉は嘆くでも怒るでもなく、冷静だ。
「あ……の、私、幼稚園からの友だちが、なかったことになってしまうのが嫌だったのかもしれません」
茉莉香が記憶をたどるように言う。
あの事件が起こるまでは、学院は茉莉香にとって、たった一つの大切な世界だったのだ。
十五年かけて作り上げた小さな世界。
それが茉莉香のすべてだった。
「知佳はどうしているのでしょうか?」
茉莉香は知佳のことを思い出す。明るく社交的な彼女は、いつもグループのリーダー的存在で、茉莉香の憧れだった。
「まぁ、浅見さん。澤本さんの心配? あなたたち家族は被害者なのよ!」
京が呆れたように言う。
茉莉香の気持ちなど、到底理解できないというように……。
「でも、私の家族は元に戻りました。知佳は……」
完全に元通りと言うわけではない。
あの事件以来、何かが変わってしまった。
それでも、父も母もやり直そうとしている。
「元通り……というわけにはいかないでしょうね」
京が静かに言う。
父親は犯罪に手を染め、母親は病を患い、本人は退学したのだ。
楽観的な予測など、できるはずもない。
だが、気落ちした茉莉香を見て、
「でも、お父様はそろそろ釈放か、仮釈放されているんじゃないかしら? お母様の病気もよくなれば……」
慰めるように励ました。
「せっかくのお昼休みに、変な話をしちゃってごめんなさい。嫌なことを思い出させちゃったわね」
京がすまなさそうに言う。
「そ、そんなことありません」
「浅見さん。友だちを思うのはいいことよ。でもね、考え過ぎてはだめ。参ってしまうわ」
「はい」
「それにね。私たちは、社会に出たら、たくさんの人に出会うの。今までよりも、ずっと広い世界が私たちを待っているわ。新しい生きがいも、きっと見つかるはずよ」
京の言葉は温かく力強い。
「はい」
茉莉香が微笑むと、京も笑顔で頷く。
そして、いいアイデアを思いついたようだ。
「今度、一緒にテニスでもしない? 楽しいわよ」
「あ、あの……私、運動は……」
茉莉香は、スポーツが得意ではない。
「ああー! やっぱり? そんな感じよね。大丈夫。教えてあげる。テニス教室でバイトしていたこともあるのよ」
笑いながら言う。
運動が苦手なことを見抜かれていたことが、茉莉香には恥ずかしかったが、京に言われるのは嫌ではない。
「約束よ! 私、浅見さんには社交辞令なんて言わないから!」
「ありがとうございます! そのときは、沙也加ちゃんも一緒にお願いします!」
「了解!」
そう言って、京が席を立つ。
茉莉香は、その後姿をいつまでも見送った。
古い扉は閉ざされた。
だが、新しい扉が開かれようとしているのかもしれない……。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。