第20話 夏休み 1
夏休みの出来事です。
les quatre saisonsは八月の中旬を夏休みにすることになった。
「十日間あるけど、亘さんはどうするの? 家に帰る?」
由里がたずねる。
「いえ。僕は、ここでのんびりしますよ。調べ物もあるし」
亘が答える。
「たまには、ご両親に顔を見せないと」
由里が諭すように言うと、
「じゃあ、一日くらいは顔を出しますよ」
気の無い返事が返ってきた。
説得をあきらめた由里が、今度は茉莉香に別の提案を持ちかける。
「茉莉香ちゃん。今泉クンの軽井沢にあるコテージに招待されたの。茉莉香ちゃんも、是非って言っていたわよ」
今泉家所有のコテージは、部屋は六室あり、由里の家族も茉莉香も、もちろん浩史自身も泊まれるという。
一瞬、茉莉香の脳裏に浩史の笑顔がよぎる。
「い、いえ。私は……実家に帰るし、家族と旅行に行くかもしれないし……」
由里は、茉莉香がムキになって断る様子に驚きながら、
「そう? 残念ね。主人が三日くらいなら休みがとれそうだから。みんなで行けると楽しいと思ったの……」
「すみません」
茉莉香は自分の口調が強過ぎたことに気づく。
「いいのよ」
由里はさほど気にしていないようだ。
その時、懐かしい来客があった。
「本田さん!」
店中に歓迎の声が響く。
カメラマンの本田 佳治は、学生時代に柔道をやっていた人物で、立派な体格に、大らかな心の持ち主だ。
彼の訪問は、いつも店に明るい活気をもたらす。
……だが……
「いらっしゃいませ。おひさしぶりです」
茉莉香が笑顔で迎えるが、
「やあ、茉莉香ちゃん。元気そうだね。アイスティー頼むよ。あと、“今日のサンドイッチ”まだある?」
声にいつもの張りがない。
「はい。今日は、アボカドとトマト、鶏胸肉のムース、キュウリ、生ハムとオリーブのサンドイッチです」
「じゃあ、それで」
何か悩み事があるように見える。
「本田さん? どうかしました?」
由里が心配そうに声をかけた。
「いやぁ。実はちょっと困っていてね」
茉莉香は他に来客がないので、二人の様子を厨房からうかがっていた。
「知合いの出版社のバイトの子が夏休みとっちゃって、一週間、どうしても一人補充できないんだ」
「それで? なぜ、本田さんが困るの?」
「いやぁ。僕が紹介した子なんで、代理を探してくれって言われちゃって」
「あら、出版のお仕事ならば人気でしょ? 学生さんのアルバイトはいないの?」
「それがさ、その子、翻訳の仕事もしていたんだ。フランス語のさ。パリ支部から届いたメールや文書を訳してもらいたいそうだ」
その時突然、茉莉香が厨房から声をあげた。
「それって、いつですか?」
本田が厨房の茉莉香に顔を向ける。いつもの茉莉香らしくない大きな声に、
驚いている。
「八月の中旬だよ」
「私じゃだめでしょうか!?」
言いながら、茉莉香も自分の大胆さに驚いていた。
「あら、お店もお休みだからちょうどいいじゃない!」
由里が言う。
「そっか……茉莉香ちゃんは仏文科か。清涼女子学院大学だよね。あそこは、確か、フランス語に力を入れていたっけ」
本田は少し考えてから、
「いいかもしれない。まずは面接を受けてみてはどうかな?」
「はい。よろしくお願いします!」
茉莉香は突然現れたチャンスが信じられずに、頭がぼうっとなった。
後日、面接がおこなわれた。
茉莉香が向かったのは、二十代女性をターゲットとしたファッション雑誌の編集部だ。
面接したのは、三十代半ばの女性編集長。身に着けているスーツはブランドものだろう。
いろいろな質問をされ、学校の成績なども聞かれた。茉莉香は、先日おこなわれた試験の結果を伝える。
「学校の成績もいいのね」
編集長は、履歴書と茉莉香を交互に見ながら言った。その表情から茉莉香に好印象を抱いている様子がうかがえる。
(頑張って勉強してよかった)
自分の努力が報われるかもしれない。
「うーん。よさそうねぇ。真面目そうだし。お願いしたいのは、ビジネスメールや文書の翻訳なの。定型文も多いし、わからないところは聞いてもらえば、なんとかなりそうね」
と、編集長が言った。
「ありがとうございます!」
茉莉香は喜びの声をあげた。
思わぬ形でフランス語を役立てる機会が持てるのだ。
「じゃあ、八月中旬の一週間よろしくね」
「はい!」
茉莉香は、軽やかな足取りで編集社を出ると、電話で由里に報告をした。
「よかったわね! 茉莉香ちゃん!」
「はい!」
声が弾む。
沙也加に電話をすると、すぐ会おうと言ってくれた。
待ち合わせ場所は、駅前のカフェだ。
「おめでとう! 茉莉香ちゃん!」
会ってすぐに、沙也加が茉莉香に祝福の言葉をかける。
「ありがとう」
沙也加が自分のことのように喜んでくれていることが、茉莉香には嬉しかった。
「編集社かぁ。茉莉香ちゃん縁があるわね。そっち方面にいくつもり?」
「うーん。一週間だけだから。その後どうなるかは……」
「でも、よかったじゃない。なにかのきっかけになるかもしれないわ!」
「そうね!」
とにかく、今は、この喜びを味わいたい。
「今日は、お祝いにおごるわ。でも、お給料が入ったら……ね?」
「わかってるってば」
茉莉香が笑った。
「でもなぁ。ちょっと驚いたわ。茉莉香ちゃんが自分から名乗り出るなんて……」
沙也加が言うと、
「それ言わないで。あの時のことを思い出すと恥ずかしくて」
茉莉香が懇願するように言う。
「でも、よかったわ。茉莉香ちゃん、時々元気ないことがあるから」
茉莉香は、自分がいつの間にか周囲に心配をかけていたことを知った。由里が浩史のコテージに誘ったのも、茉莉香を気遣ってのことだろう。
「沙也加ちゃん。いつもありがとう」
茉莉香は、胸に温かいものが込み上げてくるのを感じた。
「じゃあ! 茉莉香ちゃんのアルバイトの採用を祝して!」
「カンパ〜イ!!」
二人はグレープフルーツジュースで乾杯をした。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。