第19話 グレープフルーツティーの夢
夏樹の日常を描きます。
顧客とのデザインミーティングが何度も重ねられたのち、パスカルはひとまず設計図を完成させた。
ミーティングでは、店のコンセプト、来客数の見込み、衣服の数とそれに伴う収納スペースなどについて、より詳細な打ち合わせが行われる。
夏樹はそれに同行し、議事録を作成した。
クライアントとパスカルの間でデザインのイメージが固められていく様を、夏樹はつぶさに記録していく。
今は設計図をもとに模型を作っている。だが、これもプランが変われば、新しく作り直す必要がある。基本設計をまとめるためのプロセスのひとつなのだ。
「こうして図面を実際に見ることができるのは、ありがたい」
夏樹は思う。
それに模型を作ることにより、平面図ではわかりづらい上下の構成を理解することができる。
だが、何よりも得ることが多いのは、パスカルの仕事を目の当たりにできることだ。
パスカルは若いが一流の建築士と言えるだろう。
パスカルのスケジュール管理法、施主の意向のくみ取り方、設計士として自分のアイディアを伝えるスキル……。
すべてを目に焼き付けたい。
いずれは現場に同行するだろう。
「パスカルの仕事を盗めるだけ盗んでやる!」
つぶやいたあと、事務所を見回す。
この前のように、誰かに聞かれるのはよいこととは言えない。
事務所は静まり返り、人の気配はない。
夏樹は、ほっと胸をなでおろした。
時計を見ると、
「ああ、こんな時間か……今日は、このへんにしておくか」
素早く机を片付けた。
「今日は木曜日か。マルシェがこの時間なら間に合うぞ」
自転車を飛ばしてオペラ座近くのマルシェに向かう。
パリには、地区ごとにマルシェがある。ここオペラ座近く、2区のそれは、木曜日には夜の八時過ぎまでやっている。
仕事帰りのビジネスマンやOLたちにも、人気のマルシェだ
トマトに、キャベツ、レタス、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ……どれも新鮮で、しかも安い。
「野菜が安いから助かる」
紙袋を抱え、アパートの階段を駆け上がる。
「さて、何を作るかな」
キャベツとジャガイモ、ニンジン、玉ねぎを冷蔵庫にあったベーコンと一緒に、チキンブイヨンで煮る。
トマトとレタスでサラダを作る。
「あと、パンとチーズがあったな」
スープとパンとサラダとチーズ。立派な夕餉の出来上がりだ。
「うまいなー! スープは手軽にできるから助かる。ワインも飲みたいけど、これからやることがたくさんあるから、今日はやめとくか」
食事をあっという間に平らげると、
「さて、食事も終わったし、課題に取り掛かるか」
テーブルを片付け、製図を始めた。
夏樹は製図だけではなく、あらゆる作業のスピードが速い。
面接の日にガスパールをうならせた腕前だ。
早い作業は、プランの変更に迅速に対応することを可能にする。
繰り返しプランを練り直すことで、より理想に近いイメージを完成させることに役立つはずだ。
図面が完成したら、次の課題に取り掛からなくてはならない。
ひとしきり課題を終えると、茉莉香から送られたカフェインレスのグレープフルーツ・ティーを淹れた。
柑橘の爽やかな香りが部屋に広がる。
「寝る前だからこれにしたけど、カフェインレスも美味いな」
就寝前の静かなひとときだ。
夏樹はこの時間を大切にしている。
一人静かに過ごしながら、将来のことを真剣に考える夜もある。
……だが、今夜は……
「週末は、どうしようか? ちょっと、遠出をしてみたいな。バスでジヴェルニーはどうかな?」
モネが晩年を過ごした土地で、彼の家が当時のまま保存されている。
今なら彼の作品のモデルとなった池の水連が美しいだろう。
「ロワールもいいな」
トゥールまで行って、バスに乗ればいい。
シュノンソー、ブロワ、シャンポール、アンボワーズ……。
古城を周るツアーバスだ。
「モンサンミッシェルに行こうか? あそこも日帰りで行ける」
神秘的な修道院の姿を思い浮かべる。
満潮時には海に浮かぶように立つ、大天使ミカエルのための巡礼地だ。
「いや、あそこは……」
いつか茉莉香と行きたいと思う。
スマホを開き、ホテルの庭園で由里や未希と撮影した画像を探した。
二人の間で茉莉香は楽しそうに笑っている。
由里のように茉莉香を支えてくれる人たちが、今の夏樹にとってはなによりもありがたい。
自分がこうして学業や仕事に専念できるのは、彼女たちのおかげなのだ。
「今度、由里さんにも何か送ろう。やっぱりお菓子がいいかな……」
パソコンを立ち上げ、パリ・スィーツ・土産 で検索をする。
マカロン、カヌレ、クッキー・チョコレート……。
どれも魅惑的で、目移りする。
「いろいろあるな。あとで、茉莉香ちゃんに、由里さんの好物を聞いてもらった方がいいな」
その後、デパートを周ろう。今日はもう遅い。
夏樹は寝床に着くと、知らぬ間に眠りに就いていた。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。