第18話 オレンジティーの秘密
茉莉香の日常を描きます。
梅雨になり天候が崩れると、les quatre saisonsの客足は遠のく。
そんな事情を察してか、義孝が頻繁に訪れるようになった。
「ねぇ。亘さん。義孝君、まだ学校にいかないのかしら?」
「そうだねぇ。本人も不自由を感じていないようだし……」
それにしても……。
学校に行けない上に、両親も一度も顔を出さないのだ。
茉莉香は、そんな義孝を不憫に思わずにはいられない。
茉莉香自身はと言えば、もうすぐ前期の試験が始まる。
自分の希望する専門課程に進めるかどうかが、かかっている。
よい成績を収めて、有利な状況を作っておかなくてはならない。
「茉莉香ちゃんは、何を専攻するつもりなの?」
「うーん。それがねぇ……」
沙也加に尋ねられるが、まだ決められずにいる。
「私は、芸術や文化の方面に進みたいと思っているの。パパがね、就職先に口をきいてくれそうなの」
「沙也加ちゃん成績いいし、ぴったりよね」
「あら、茉莉香ちゃんだって」
二人とも成績は常に上位にある。
方向性が定まれば、希望する道に進む可能性は高い。
早くやりたいことを見つけたいと思う。
学校が終わると自転車を走らせ、マンションへ向かう。
試験準備中は、バイトを休ませてもらっている。店はそれほど忙しくないし、
米三がいるから不自由はないはずだ。
帰宅と同時に、机に向かう。
茉莉香はこの時間が好きだ。すべてを忘れて自分のことに集中できる。
今だけは将来の不安も迷いも消えていく。
「そういえば……学校を休んでいた時も、こうして一人で勉強していたんだわ……」
あのときの勉強で、自分のフランス語の理解はかなり深まったと思う。
茉莉香は孤独な日々に思いを馳せた。
どれほど時間が経っただろうか……。
集中力が途切れがちになり、効率が落ちてきたような気がする。
「まぁ、いつの間にかこんな時間!」
時計の針は八時を指している。
茉莉香は、休憩をとらずに四時間以上勉強を続けていたのだ。
「疲れていたのね。気づかなかったわ」
座り続けたため、体がこわばるようだ。茉莉香は伸びをしたり、肩を回してそれをほぐそうとする。
それに……
「お腹がすいたわ」
食事をすることさえ忘れていたことに気づいた。
冷蔵庫を開けると、パスタと、ズッキーニ、ベーコンが入っている。
「そうだわ! これでパスタを作ろう!」
茉莉香は、鼻歌を歌いながらパスタをゆでる。それにズッキーニとベーコンを炒めてあえた。
茉莉香は料理をする時間が好きだ。料理すること自体も楽しいし、自分の好みに味付けをすることができる。
「いただきます……」
茉莉香はテーブルに着き、フォークを手に取った。
―― チリリン ――
スマホが鳴る。
夏樹だった。
茉莉香は急いで電話に出る。早く声が聞きたい。
「茉莉香ちゃん。何してるの?」
「これからお夕飯食べるところ。試験勉強で遅くなっちゃって……ズッキーニとベーコンのパスタなのよ」
「旨そうだなぁ。俺も昼飯なんだ」
「ちゃんと食べてる?」
「ああ、オペラ座の近くの市場は、夜もやっているんだ。仕事や学校の帰りでも食材が揃うから、それで自炊しているよ」
「それはよかったわ」
だが、茉莉香の心配はおさまらない。
彼があの気性で、留学先で上手くやっていけるのかが気がかりだ。
夏樹は勉強や仕事の話をするが、クラスメイトの、特に同じ日本人留学生の話をしたことがない。
恐らく同年代の人間と上手くやっていくことが下手なのだろう。
だから夏休みに友人の家に泊まり込む話を聞いたときには、腹立たしくもあったが、安堵したのだ。
だが、当人にそれを聞いたところで答えそうもない。手近な事柄から取りかかったほうがいいだろう。
「ところで、夏樹さんのお誕生日っていつ?」
「七月十五日」
「じゃあ、何かプレゼントを用意するわ。私ばかりが貰ってしまっていたもの。楽しみにしていてね」
「うれしいな。じゃあ、茉莉香ちゃん元気で」
会話は終わった。
夏樹はこまめに連絡をしてくる。茉莉香は、日々のいろいろなことを話していた。だが、浩史と月島に行った話はできずにいる。
浩史はあの後も店に何度もやって来た。彼が来ると、亘も米三も喜ぶ。
浩史は変わらずに優しい笑顔を茉莉香に向け、茉莉香も笑顔で返す。
だが、親切な態度を取り続ける浩史に、後ろめたい気持ちを抱かずにはいられない。
「ううん。考えすぎだわ。浩史さんは仕事で来ているだけだもの」
茉莉香は自分に言い聞かせる。
「食後のお茶をいれよう! 今日はオレンジティーがいいわ」
茉莉香は棚から缶を取り出した。
「これはダージリンを使っているけど、オレンジの香りで飲みやすいのよね」
カップに注ぐと、爽やかな香りが漂ってくる。
口に含むと、柑橘の心地よい酸味が口に広がった。
「そうだわ!」
夏樹の誕生日プレゼントを考えなくてはいけない。
夏季休暇の旅行に持っていけるものがいいだろう。
「リュックサックがいいかしら?」
パソコンを立ち上げ、“リュックサック”で、検索をする。
「いろいろあるのね……軽くて、使いやすくて……防水の方がいいのかしら? できれば、お店で実物を見てみたいわ」
試験が終わったら店へ足を運ぼう。
自分のこの目で見て、選びたい。
夏樹はきっと喜んでくれるはずだ。
それを考えながら、茉莉香は眠りに就いた。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。