第16話 夏摘みの季節に
設定のおさらいを軽く……
les quatre saisons は由里さんのご主人が立ち上げた紅茶ブランドの名前です。
そして由里さんは、同名のカフェのオーナーです。
亘さんは、由里さんの従弟で、店長を務めています。
「茶葉をお届けしました!」
配達に来たのは、背広姿の若い青年だった。
「社長が買い付けたばかりのダージリンの夏摘みですよ。これからが旬ですね」
「ご苦労様。そんな季節になったね。僕も待ち遠しかったよ。貯蔵庫にスペースがあるから、とりあえずそこに置こう」
亘が中身の確認をしたあと、二人は店の奥の貯蔵庫へ運びはじめた。
「私も手伝います!」
茉莉香が駆け寄ると、
「いいですよ。重いから。二人いれば十分です」
青年は軽々と荷物を持ち上げた。
作業がひと段落ついたとき、茉莉香は亘に呼ばれた。
「茉莉香ちゃんは、はじめてだね。今泉 浩史君だよ。les quatre saisonsの新入社員だけど……」
と、亘が言いかけたとき、
「坊ちゃんじゃありませんか!」
買い物で外出していた米三が、頭を下げながら店に入ってくる。
「申し訳ありません。こんな荷物を運ばせるなんて……」
米三はこの作業に加われなかったことを、すまなく思っているようだ。
「坊ちゃんはよしてくださいよ」
浩史の声には、米三に対する敬意がこもっている。
「茉莉香ちゃん。この人はね、les quatre saisonsの新入社員だけど、米三さんが定年まで勤めた“イマイズミ”の御曹司だよ」
亘が中断された話を続けた。
「あの大手紅茶メーカーの?」
茉莉香が驚く。
les quatre saisonsで働くまでは、茉莉香はそこのティーバッグを利用していた。全国のデパート、スーパー、どこででも見かける黄色地に赤い鸚鵡とロゴの描かれたティーバッグが思い浮かぶ。
手頃な日用使いのものから、愛飲家や贈呈向けの高級品まで幅広く手掛ける大手ブランドだ。
「いやだなぁ。まだ、ぺーぺーなんですよ」
浩史が照れながら言う。
「僕、前々から前川社長のところで働きたかったんです」
浩史の言葉は青年らしい若々しさに満ちていた。
茉莉香は今まで、この年頃の青年に会う機会がなかった。
それほど年が離れていないはずなのに、ひどく大人に見える。
「それから、彼女は浅見茉莉香さんだよ。一昨年からここでバイトをしているんだ。精涼女子学院大学の二年生なんだ。仏文科を専攻しているんだよ」
「はじめまして」
浩史が言うと
「はじめまして」
茉莉香が笑顔で応える。
「フランス文学が好きなの?」
「はい」
「それにね。フランス語も堪能なんだよ」
亘が付け加えると、茉莉香がはにかんでうつむく。
そんな茉莉香を見る浩史の目は温かい。
「じゃあ、ありがとうございました。茉莉香ちゃんも、これからよろしくお願いします」
丁寧にあいさつをすると店を出て行った。
その日から青年は店にちょくちょくと顔を出すようになった。
「白桃の在庫が切れていませんか? 今、シーズンですよね?」
浩史が言うと、
「ああ、そう言えば、ちょうど注文するつもりだったんだ」
亘が浩史の目配りに驚く。
そして、別の日には、
「キャピタル農園の夏摘みはどうですか?」
「えっ? ちょっと待って。あれ? 思ったよりも在庫が少ない」
「よく出ているようなんで、持ってきました」
そう言って、浩史は茶葉の在庫を追加していった。
とにかく彼は気が利いた。在庫の管理だけではなく、彼が新たに置いていった商品はよく売れた。棚を掃除して帰ったこともある。
ある時は、
「季節の商品は、お客様の目の高さにして棚の中央に置きます。それから、幅も広く取ると売上が上がりますよ」
そう言って、浩史は手際よく夏摘みのスペースを作っていく。
浩史の言う通り、例年よりも夏摘みの売上が、一週間で目に見えるように上がっていった。
「目からウロコだな。さすが“イマイズミ”の一員だ」
亘もなにかと気を配っているが、浩史にはかなわない。
「坊ちゃんは、将来イマイズミを背負って立たれる方です。それに相応しくあるよう厳格に育てられてきました」
米三が誇らしげに言う。
浩史は、いつもきびきびと動いていたが、それでいておっとりとした品の良さが垣間見られる。話をすると楽しく、亘や茉莉香を笑わせた。時折、口にするジョークはウィットに富み、その場を和ませる。若く陽気な青年だが、それでいて軽薄なところがない。
茉莉香も、そんな浩史が来ることが楽しみになった。
ある日、いつものようにやって来た浩史は、ケーキを届けに来た由里に会った。
「あら−! 今泉クンひさしぶり」
由里もこの青年に会うことを喜んでいる。
「おひさしぶりです。入社式以来ですね」
「ねぇ。お客様もいないし、少しゆっくりしていったら? 今日は私がお茶を淹れるわ」
「前川さんの淹れるお茶が飲めるなんてラッキーだな」
浩史の言葉は親しげだが、相手に対する敬意が損なわれることはない。
「今日はね、白桃のタルトを焼いてきたのよ。お茶は……キャンディにしましょう!」
「いいですね。あっさりとしたお茶ですから」
「今泉クンにこういう話をするのはねぇ……。私よりも、お茶との付き合いは長いでしょうから……」
由里が少し照れたように言う。
ケーキが切り分けられ、お茶の入ったカップが並べられる。
「タルトがすごく美味しいですね! 白桃の甘酸っぱさが丁度いいし、タルト生地もサクサクしていますね!」
茉莉香が言うと、
「本当だ。ちょっと感動しますよ」
浩史は、由里の焼いたケーキを食べるのは初めてだと言う。
「それに……お茶も美味しいなぁ。淹れる人によってこんなに変わるんですね」
「まぁ! 今泉クンたら。お上手ね。でも、あなたに褒められると嬉しいわ」
由里が笑う。
由里が初めて浩史に会った時の印象や、人づてに聞いた彼の評判について会話が弾む。それらは、すべて好意的なものばかりだ。
そして話題は、茉莉香のバイトや、学校生活のことへ移り、やがて、夏樹の話となった。
「へぇ! 茉莉香ちゃんの彼はパリで建築の勉強をしているんだ? すごいね」
浩史が感心しながら言う。
「そうなのよ。すごく頑張り屋さんなの。……でも、彼は恋人を置いて行っちゃったのよ」
由里がそっと茉莉香を見る。
「じゃあ、茉莉香ちゃん寂しくない?」
「そんな……寂しいだなんて……」
茉莉香の心に、浩史の優しさが何の不自然さもなく、すとんと落ちてきた。
「寂しいに決まっているじゃない。この人には気晴らしが必要なのよ」
由里が茉莉香の気持ちを代弁するかのように言う。
「そっかー。恋人がいるのかー。けっこーショックだよ。僕」
浩史が胸に手を当てながら、大げさに嘆いた。
「今泉クンたら。おかしいわ!」
そのおどけた姿を見て、由里が声をたてて笑う。
茉莉香もいつものジョークだと思おうとするが、素直に笑うことができない。
何かが心に引っかかるのだ。
「由里さんが言うとおりに、気分転換は必要だよ。僕と映画に行ったり、食事に行くぐらいならいいんじゃない?」
「あの……」
揺れる心を隠し、茉莉香は返事を曖昧に濁す。
「そうよ。そうよ。たまには遊びに行かなきゃ。茉莉香ちゃんは、ほとんど学校とお店の往復だけでしょ。ねぇ、浩史さん。どこかに連れ出してあげて」
由里が浩史を後押しする。
由里は、“友だち”として、茉莉香を連れ出してくれる浩史の親切に感謝しているようだ。
それならば、自分が今感じていることは、単なる思い込みなのかもしれない。
そんな茉莉香の気持ちを察したかのように、
「じゃあ、今度、一緒に出掛けよう!」
浩史が茉莉香を誘った。
「あっ、あの!」
“出かけるだけ”と言われると、強く拒むこともできない。
「やった! じゃあ、今度の日曜日にね!」
いつの間にか、茉莉香は浩史と外出することが決まってしまった。
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