第9話 はるのさかな
茉莉香のある日の出来事です。
由里が春のメニューに加えた、ニルギリとフルーツケーキのセットは好評で、注文が相次ぐ。苺のタルトや、洋梨のシャルロットをテイクアウトする客も少なくなかった。
「由里さんのメニューはいつも完璧ですね!」
茉莉香が言うと、
「本当に」
亘が同意する。
色鮮やかなケーキたちは、春の訪れを告げているようだった。
その日、茉莉香は学食で昼食をとろうとしていた。プレートを持って席に着いたとき、
「浅見さん!」
背後から声をかけられる。背の高い、短めのボブヘアの女性だ。
「あっ! 小日向さん!」
テニス部部長小日向 京だった。
以前、由里の執筆した『あなたと紅茶』をまとめて注文してくれた経緯がある。
彼女の人柄を慕う後輩たちが買ってくれたのだろう。
「先日は、ありがとうございました!」
即座に起立し、深々と頭を下げた。
「そんなぁ。大げさ! 大げさ! ああ、あの本、評判よかったわよ!」
張りのある明るい声だ。
「いえ、でも……」
そうは言われても緊張せずにはいられない。京はテニス部の部長として学内で一目置かれている。
「あら、今日は、鰆の煮つけに菜の花のおひたしね。美味しそう。私もそれにするわ。ねぇ、一緒にいい?」
京が茉莉香のプレートをのぞき込みながら言う。
「は、はい!」
「かたい、かたいってば!」
京が笑った。
京は茉莉香より一学年上だ。以前、沙也加に彼女の話をしたとき、ぜひ、紹介して欲しいとねだられたことがある。高校時代の憧れの人だったという。
背が高く、細身だが体格がよい。颯爽と歩き、明るく歯切れよく話す。
沙也加が彼女に憧れる気持ちが、茉莉香にも理解できた。
「お待たせ」
京は茉莉香の前に座ると、膝の上で指を組んで、小さな声で何かを唱えている。
「あ、ウチ、家族でクリスチャンなの。プロテスタントだけど」
茉莉香の視線に気づいた京が言った。
「そうだったんですね」
精涼学院は、カソリック系の学校であるが、茉莉香のように信者ではない者もいるし、プロテスタントの者もいる。
「私ね、浅見さんとは気が合いそうだなって思って」
「えっ?」
「学内の人とつるんでいないから」
茉莉香は自分がそのように見られているとは思いもよらなかった。
「自分がどう生きたいか、真剣に考えている感じがするの」
京が言う。
「そんな、私なんて……」
ストレートに褒められ、茉莉香は恥ずかしそうに俯く。
「ねぇ、聞かせてよ。編集のこととか、お店のこととか」
茉莉香は、由里のアシスタントの仕事や、les quatre saisonsで働く同僚、出来事の話をした。
京は興味深そうに聞き、時々質問をしてきた。親身に話を聞いてくれる京の姿に、茉莉香は以前にも増して好意を感じた。
義孝と米三の話になると、京は声を立てて笑った。
「もう、私ビックリしてしまって。米三さんが、あのときなんていったか、今でもわからないんです!」
米三が義孝を抱え上げた姿を思い出すと冷や汗が出る。
だが、京は面白がって、
「その子、傑作! でも、お仕置きが必要ね! 今度私が行って……」
“ぱーん”と、言って、ラケットを振るそぶりを見せた。
「だ、だめです! そんな」
茉莉香が慌てて言うと、
「あはは。冗談よ。冗談。真に受けちゃだめよ」
京が笑いながら言う。
最近同じことを誰かに言われたような気がしたが、思い出せない。
「でもねぇ。その子の言うことも一理あるのよ。私もね、昔、プロのプレイヤーになりたかったの。でも、あの世界は、かなり早い時期に結果を出さないと駄目なのよ」
「そうなんですか」
「だからね。私はスポーツメーカーに就職したいと思っているの。アスリートたちをサポートしたいの。これでも経済学部なのよ」
「小日向さんにサポートされるなんて、選手たちも心強いと思います!」
茉莉香が思い切り言うと、京が笑った。
「浅見さんに言われると、なんかできそうな気がしてくるわ。ところで、浅見さんの学部は?」
「仏文科です。中学の頃から、フランス語とフランス文学が好きだったんです。それで、ぜひ大学でも勉強したいと思いました」
「あら、すてき! 好きなことを続けているのね」
「でも、これをどう職業に結び付けていくかわからなくて……」
それを考えると、茉莉香は自分の選択に自信がなくなる。
これでいいのだろうか? と、迷うのだ。
だが、京は笑いながら言った。
「私も一緒よ。就職できるとも限らないし、できたとしても、何をさせられるかわからない。勉強したことが生かせるとはかぎらないもの」
茉莉香は、おおらかな京と話をしていると、自分のもやもやした気持ちが、次第に晴れてくるのを感じた。
「そうですね。好きなことが勉強できて幸せだと思います」
茉莉香が言うと、
「そう。そう」
京がうなずきながら笑う。
そして席を立ち、去り際に、
「彼によろしくね! さみしかったら電話ちょうだい。話なら聞くわよ!」
と言った。
茉莉香は赤くなって下を向いた。
近くの席の学生が、こちらをちらちら見ている。
そんな茉莉香を見て、京は笑いながら去って行った。
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