第1話 君が嘘をついた
第2章のはじまりです。
ヒロインの成長を、いろいろな人とのかかわりを通して
ゆっくりと描いていきたいと思います。
がんばりますので、よろしくお願いします。
「はい。茉莉香ちゃん。亘さん。ダージリンの秋摘みよ」
二人はカップにそっと口をつけた。
「あっ……やさしい味。それに、なんだか懐かしいような……」
と、茉莉香が言うと、
「水色もいいですね。鮮やかなオレンジ色だ」
と、亘が言う。
「でしょ。秋摘みもいろいろあるけど、これは特に……ね」
「今の気分にぴったり」
茉莉香がゆっくりと味わいながら言う。
「そうね。お茶は保存状態がよければ二年ぐらいはもつけれど、やはり旬のものは、それぞれの季節に合うのよね」
「本当に」
三人は顔を見合わせてにっこりと笑う。
そのとき玄関からウェイター姿の男性が入って来た。
「奥様。この茶葉の缶はどこに置きましょう?」
「まぁ、米三さん。奥様なんて呼ばないで」
「ですが……社長の奥様を“由里さん”とは……」
「しょうがないですね。じゃあ、“オーナー”とでも呼んでください」
彼の名は、秋元米三。この一月で退職した未希の後任としてここで働くことになった。
彼は大手紅茶メーカーを定年まで勤めあげた後、由里の夫の会社に数年間勤務した。前川氏とともに世界中を回っていたが、昨年末に退職している。
「米三さんは、東北出身とうかがいましたけど、とてもきれいな標準語を話されますね。アナウンサーみたい」
茉莉香が言う。
「いやぁ。東京に出てくるからにはと思って、必死で身につけました」
米三が照れながら言うと、
「そういうものですか」
亘が感心したように言う。
米三は三人のカップを見ながら、
「ああ、マーガレットホープ農園の秋摘みですね。社長との最後の買い付けになりました。さすがに、もう体力的にきつくて……」
「秋元さんのおかげで、本当に主人は助かりました」
由里の言葉には深い感謝が込められている。
秋元は豊富な茶葉の知識と控えめな接客でles quatre saisonsにとってもよい働き手となった。
「今度はニルギリの買い付けね。お店に出せるのは三月ごろになると思うの。果物に合うから、フルーツのケーキを用意しようかしら」
由里が楽しそうに計画を立てる。
「ステキ!」
茉莉香の気持ちも弾んでくる。
こうして、未希の退職後のles quatre saisonsは再び順調なスタートを切ろうとしていた。
夏樹は駅前のカフェで茉莉香を待っていた。
今日は報告しなければならないことがある。
それを茉莉香がどう受け取るかが気がかりだった。
時間通りに茉莉香が店に入ってきて、夏樹をみつけると、
「待った?」
と、笑顔で言った。
「いや」
「……どうかしたの?」
茉莉香が心配そうに見ている。
「今日は話さなきゃいけないことがあって」
「なに?」
「どうしても話さなきゃいけないんだ」
「……」
「留学するんだ」
「えっ?」
にわかには信じられないという様子だが、無理もないだろう。
「四月から。交換留学なんだ」
「どこへ?」
「パリ。国立建築大学」
「どのくらい? 短期留学?」
「一年」
「そんなに!」
茉莉香の声が震える。
「いつから準備していたの?」
「去年パリから帰ってから……」
「そんなに前から?」
大きな瞳がいっそう大きく見開かれる。
「ごめん。選考されるとは限らないから、心配かけたくなかったんだ」
「ひどいわ。せめて、もっと早く教えて欲しかったわ」
今にも泣きだしたいのを、必死でこらえているようだった。
「ごめん」
茉莉香はひどくショックを受けているようだ。
夏樹は謝る覚悟はできていたが、今の茉莉香を前にしてはそれさえもできない。
「せめて、相談してくれればよかったのに」
夏樹は今まですべてを自分で決めてきた。また、そうせずには生きてこれなかった。だが、それが今、茉莉香をひどく傷つけている。
「ごめんなさい。せっかくのおめでたい話なのに。本当に……」
茉莉香が席を立とうとする。
「送るよ」
「大丈夫」
無理に笑おうとする姿を見て、心が痛む。
「お願い。一人なりたいの」
そう言って、静かに店を出て行った。
そのあと、夏樹は茉莉香に会おうにも、しばらくはそれが叶わなかった。
まず、電話にでない。les quatre saisonsに入れない。茉莉香から話を聞いた由里から締め出しを喰ってしまったのだ。
夏樹はもっと早く話をしておくべきだったと後悔をした。
だが、彼も出発前の準備に追われていた。茉莉香に連絡をとることを試みることだけに時間を割くわけにいかない。
茉莉香から連絡が入ったのは、三月の初旬、出発の二週間前だった。
「この前はごめんなさい。お祝いしなきゃいけないし、しばらく会えないから」
いつもの静かで優しい声だ。
こうして、二人は再び会うようになる。
夏樹は多忙だったが、時間をやりくりしていろいろな所へ出かけた。
リクエストにこたえて買い物にも付き合う。茉莉香はいつも通り明るく笑っていた。
そして、出発の前日、水族館へ出かけた。
ゆっくりと水槽を泳ぐ魚を見ながら、たわいのない話をして過ごす。
閉館を知らせる音楽が流れ、
「もうこんな時間……」
茉莉香が名残惜しそうに言う。
別れの時刻が迫っていた。
二人は外へ出ると、駅に向かう海岸沿いの道を歩く。
「あら、まだ明るいわ。だんだん日が長くなるのね」
外気の冷たさを楽しむように茉莉香が言った。
「茉莉香ちゃん。俺、向こうで絶対、結果を出したいんだ。学校だけじゃなくて。いろいろな所へ行って、実際に街や建物を見たいんだ」
茉莉香が夏樹の言葉を黙って聞いている。
「うん。夏樹さんが一生懸命勉強してくれると、私も嬉しい!」
茉莉香が明るく言った。
茉莉香は嘘をついている。つかせたのは自分だ。
「もう三月なのに……寒い……」
茉莉香がマフラーを巻きなおす。
夏樹は茉莉香をそっと抱き寄せた。
はじめは驚いたようだが、身をまかせるようにじっとしている。
茉莉香は温かかった。
自分たちは、いつも嘘をついているような気がする。
もしこのまま帰さなければ、すべての嘘はなくなるのだろうか。
茉莉香は迷うことなく自分を待っていてくれるのだろうか。
だが、彼女がこれからの一年間が自分を待って過ごすことにためらいを感じた。
「送るよ」
夏樹は茉莉香の体をそっと離した。
出発の日、茉莉香が見送りにきた。
「夏樹さん。これ、お祝い」
カーキー色のカバンを渡される。
「わぉ! すっげーいいじゃん」
「ママと一緒に選んだの。夏樹さんのカバンって、ボロボロでしょ」
「ちぇ! よく見てんのな。ありがとう。大切に使うよ」
そして、
「俺、向こうで仕事もするよ。金を貯めて……」
だが、そこから先を言うことができなかった。
夏樹は茉莉香に背を向けると、振り返ることなく歩いて行った。
そして、ここからお話が始まります。